1951年のレンズと最新のデジタルカメラ

  以下、今日の分はカメラや写真のことばかりなので、すいません、そこに興味がない方にはちんぷんかんぷんでつまらないことでしょう。最初にこう書いておくのでご興味ない方は読まないで済ませてください。しかも長い・・・

 1951年発売のセレナー35mmF2.8(ライカスクリューマウント)レンズは1990年代によく使っていた。当時の自分の理解としては、90年代の最新レンズと比べて甚だしく劣るという風には思っていなかったから、レトロな写り(柔らかいけど解像度が低い)に期待してレンズを選んでいたわけではなく、古いレンズをマニュアル操作して写真を撮ることが、すなわちオートでない面倒が、楽しくて、楽しくあれば写真を撮る意欲も強い、そんな連鎖で使っていたんだろう。撮影準備や撮影動作を、手順を踏んで進める、その意味を理解して、忠実に守ったり自分なりのやり方を交えたりしつつ、こなしていく。こういうことが「撮れた写真」の成功確率というのか、満足確率を持ち上げていたのかどうかわからない。わからないけれど、そういうこともあるんだろう、とは思う。あまり過信したくはないけど。モノクロフイルムはTMax100が定番で、マイクロドールX現像液をたしか1:3に希釈して、液温と現像時間をどう設定していたか残念なことに忘れてしまった20℃で十数分の「数」がわからない。標準より若干薄めのネガに仕上げて、その分、微粒子を目指していた。デジタルカメラが主流になり、フイルムを使う回数はどんどん減って行き、するとフイルム現像をするのも面倒になり(いちど作った現像液の稼働率が落ちる)モノクロもC41現像できるものしか使わなくなった。最後に自分でフイルム現像をしたのは、00年代前半だったと思う。もちろんそのときはこれが最後とは思わずにいて、まだ使えそうな現像液や定着液は2リットルボトルに戻したが、その後、もうフイルム現像はしなかった。五年くらい経っても最後に使い廃棄しなかった現像液と定着液は単身赴任アパートの冷蔵庫の裏のスペースに置かれていて、茶色のボトルは埃まみれになった。五年か十年経って、大きなバケツに両方の液を混ぜて中和し、さらに何倍もの水で希薄してから廃棄した。現像タンクはキングパターソンのものを使っていた。一本用のものと、三本だったかをいっぺんに現像できるタンクだった。両溝式でベルト式よりも現像ムラが起きにくく、かつキングパターソンの特徴は、フイルムの端部をスタート位置に挟んだあとはリールのフイルム送り機構を使えば、間違いなく装填が出来た。デジタル一眼レフカメラが主流だった頃、2005年から2018年くらいには、このセレナー35mmF2.8のようなレンジファインダーカメラ用の交換レンズはデジタル一眼レフカメラで使うことはフランジバックの関係で無理だったので、このセレナーをはじめ、何本か持っていたL39マウントやライカMマウントのレンズは、数年に一度、リハビリと称してフイルムカメラを稼働させるときにしか使えなかった。リハビリと言うのは、枚数が一本あたり36枚のフイルムだと、いくらたくさん撮るといってもなんとなく心の中に枚数をセーブする気持ちが適正に働いて一日五本くらいまでがせいぜい(というのが私の「感じ」だった)だ。五本で180枚。適正と書いたのは、デジタルはいくらでも撮れるから、なんなら現場では「念のため」とか「数打ちゃ当たるだろう」と思って一枚に込める気合のエネルギーが減っているってことかもしれない。一球入魂という単語があるけれど、一写入魂というのか一駒入魂かな、その入魂の差が成功確率の差になる。よくサッカーの試合で、90分のうち、いまはAチームの時間とか、今度はBチームの時間というように、どっちがより推していてチャンスを多く作っているかが別れていて、これが一番わかるのがルーズボールというのかセカンドボールというのか、それがどっちのチームに渡るかだと思う。ある時間にはもうそれこそ80%とか90%、そういうボールはAチームに渡るのに、別の時間にはそれがひっくり返ってBチームばかりに渡る。あれは一瞬の逡巡とか、一瞬の決意の、たぶん0.1秒以下の時間差が現れるんじゃないか。一駒入魂もそういう感じでボールを奪取する(成功写真が写る)のと似ている気がする。とこう書くと、デジタルはフイルムに比べて「良くない」と否定的に書いているように思えるが、そこがスポーツとは違うかもしれないところで、適当なフレーミングで適当に切る、適当に連写して後から選ぶ、そこからもこれは意識的な成功というより偶然の妙味がもたらす成功が得られる。あ、誤解なきよう・・・ちゃんと、デジタルになっても以前と同様に一写入魂で撮っている方もいるだろう。みんながみんな適当になっているわけではない。・・・でも、すいません、話を偶然の妙味に戻すと、その偶然の成功の枚数を増やすには、いまどきの秒間20駒なんていう数字が支えになるのかもしれない。私はそういう連写はしないからわからないけれど。もちろんフイルムではなくデジタルにも良さがある。その良さが技術的な発展、最新機能で出来るようになってきたことに依存している場合は、これはもうデジタルのもたらした革新だからそれはそれで素晴らしい。星空タイムラプスとか手持ちで2秒のシャッター速度でもぶれないとか、これはこれですごいことでフイルム時代にはそういう技術は同時期的にまだ出来ていなかった。とかなんとか、思うままに書きなぐって来たけれど、これはひどい脱線で、言いたかったのは、実はミラーレスのデジタルカメラ時代になったので、最初に書いたライカスクリューマウントのような古いレンズが急に今またデジタルでも使えるようになってきたということだ。なぜなら、ミラーレスカメラが主流になってきて、フランジバックが短くなることで、そういう古いマウントのレンズを最新のカメラに装着するためのアダプターが設計できるようになっているから。・・・さてと、長々とカメラとレンズの個人事情について明かしてきたけれど、そんなわけで、最新のミラーレスカメラに1951年の35mmF2.8を付けて、夜の散歩に出ました。最新の35mmも持っているのに、あるいは1970年代の35mmもあるのに。なんでわざわざ一番低画質にしか写らない古いレンズを付けて出るのかと言うと、上の方に書いたマニュアルゆえによりたくさん考えなくてはいけない撮影準備や撮影動作のわずらわしさが楽しいからだと思う。便利がいいわけではないというのは人間の面白さですかね。だけど、1990年頃にはセレナーで撮ってそんなに低画質とは思わなかったけれど、いまはその差は際立ってしまっている。そりゃそうだろう、フイルムの解像を画素数のイメージでいえば800-1000万画素くらいで、そこではあまりレンズの古い新しいの性能差は(今ほどは)わからなかった、けれどいまは2000~4000万画素の時代だから、フイルム時代よりずっと高精細に解像できるセンサーになった。なのでセレナーが解像の面で最新のレンズには大きく及ばなくなってしまったことが写真を見ればわかる。ブログに十分な画素数で、この写真をスマホやPCモニターで見ている分には、その差はわからないかもしれない。ところで、ではこういう古いレンズでその「低画質」がもろにわかってしまう最新のデジタルカメラで撮った写真がそういう技術の差によってすべからく「良くない」「だめな」「残念な」写真になってしまうのか?それがまた決してそうではないところが面白いというか、これはいいことだと思います。高精細なプリントを細部まで見るのは楽しい。それは写っているものの情報を読み取ることの面白さ。一方なんだかわからなかったり、ぶれたりぼけたりしている低画質写真も面白い。写っていないものに思いを馳せるかもしれない。出来れば「きれい」と「なにが写っているかがわかった」ことで、写真を見るのを止めてしまわないで欲しいと思います。夜の雲がこんなに白くは人の目にはそう見えない。これがデジタルカメラですね。ボディ内手振れ補正と高感度低ノイズとマニュアルフォーカスレンズでもフォーカス状態がわかる表示とでラクチンだった。この写真がまさに1951年のレンズで撮った写真です。白い夜の雲、もしそれが不自然ならもっとコントラストを落とせばいい。やれやれ、手持ちで撮って星さえちゃんとブレずに写ってしまう。実はスマホでもそうらしい。スマホでも手持ち(にほぼ決まっている)で撮って天の川も写るらしい。いい時代でもあるし、やれやれという感じもする。なにもかも白日の下に引っ張り出すような時代はある意味で乱暴でどうなの?と思う。この最後のところは写真のことではなく世の中のこと。