そこにいたい

 写真は先日銀座の資生堂ギャラリーで見た「第八次椿会 このあたらしい世界 2nd SEASON"QUIET"」に展示、というか壁にプロジェクターで投影されていたビデオ作品を撮ったもの。現代芸術活動チーム 目[mē] の企画による作品。固定カメラでまだ空に少しだけ藍色の残っている時刻から夜になるまでの数十分、固定カメラで車の行き交う橋を撮っている。この写真でいうと真ん中あたりから画面右の範囲にある三つの白い光の点がたぶん道路脇の街灯で、その光より少し下の左側に写っているのがトラックが二台だろうか、トラックのアルミのコンテナが少し光って写っているようだから実は画面左に向かっている自家用車が手前に走っていてそのヘッドライトでコンテナがちょっと照らされて写ったのかもしれないが、詳細はもうわからない。車が右に左に通り、画面外の信号で止まるのだろう、ときどきどちらかに向かう車だけになり、あるいはしばらく車が来ないときもあった。ずっと固定カメラの大して高画質ではない動画が流れていて、数分に一度くらい忘れたころに意外にクリアな声で誰かが話す。写真には、話されたことが文字になってプロジェクターで投影された、その字が写っているコマがあって、そこには「聞き覚えがあって、あれには慣れていたんだけどね」と「宇宙の話も 俺 すごい好きなんだよね」とあった。車のヘッドライトが行き交うが車の走行音は聞こえなかったと思う。そしてなによりも、素敵なのはずっと虫の声が流れているのだった。

 想像したのは、このカメラポジションがこの景色が見えるアパートの部屋の窓辺であって、そこでぼんやりと外を眺めながら、ときどきぼそぼそと話している二人の友だちがいて、それは初秋で外からは虫の声がずっと聞こえているというシチュエーションだった。そして、もし現実にそういうところにいたら、そこまでずっと虫の声に耳を傾けたり、遠くの橋の景色を眺め続けたりはしないで、もっとスマホを見たり、飲み物を取に冷蔵庫に行ったり、とうとう飽きてテレビを付けたりするんじゃないだろうか。だけど、そういう現実からカメラアイでこの画角の光景だけが切り出された動画となり、部屋ではなく周りは美術館の空間で鑑賞のためだけの椅子があり、ずっと虫の声が聞こえ続け、たまに声が入る、という作品の前にいると、想像したその場にいるときと違って、もっとずっと集中してそこにいて、そして、実際にその窓があり、橋が見える部屋に行ってずっと見ていたいと思えるのだ。実際にこの作品を撮ったその場所よりも、作品になって美術館の壁の前にいる方が、たぶんずっと居心地がよくていつまでもただ車が行き交う景色を虫の音を聴きながら見続けていたくなるのだった。

 現代芸術に分類される動画作品で、ときどきこんな風に引き込まれることがありますね。ありふれた窓辺とありふれた景色と、どうでもいいような話。だけどその場所から、上記の例でいえばスマホも冷蔵庫もテレビも引き算されてここ(美術館)にはない。作品を構成するうえで不要なものを現実から引き算した、すなわち「ない」ことが、作品の必要要素を際立たせていて、そこから居心地の良さや、鑑賞者をそこに留める力が生まれているんだろうな。すぐ上に『実際にこの作品を撮ったその場所よりも、作品になって美術館の壁の前にいる方が、たぶんずっと居心地がよくていつまでもただ車が行き交う景色を虫の音を聴きながら見続けていたくなるのだった。』と書いたが、ただしくは『実際にこの作品を撮ったその場所よりも、作品にになって仮想された美術館の壁の前でずっとその作品を見ているときに想像している「実際」ではなく「妄想」した、その橋の見える部屋にいたい』かもしれないな。

 なんだかとても癒されました。