三連休も最終日となり、やっと快晴の日になった。9月の日差しは強く、小さな川の流れに沿って植えられた赤い花の咲く萩にも、陽の光が正面から当たっていた。マクロレンズや望遠レンズを使い、絞り値を工夫して、ボケや光と影を生かしたダイナミックな花の写真を撮ることは、(成果である写真の上手い下手はさておき)撮っている時間は面白くて夢中になり楽しいものだ。だけど、ただ歩いているときに出会った花咲く萩を、なんの衒いもなく標準画角で一コマ撮ったこういう写真が今日の私には大事だなと思える。 ニューカラーの写真家はこういう何気なさをコントロール出来ているのかな。

 誰かのために良いと思ったことが、誰かにとって迷惑なだけだったときは、結局は自己満足で自分に媚びていたんじゃないか。もちろん想像力の欠如とともに。もっと単純に、当たり前に、いるべきだった。毎年、秋は後悔を伴うようだ(一般論ではなく過去を振り返ったときの自分がです)。そして繰り返す。

 歩いていると、9月の日差しは容赦なく、今日もまるで真夏のある一日のように、汗がだらだら流れた。

 いくら暑くとも、芙蓉にコスモスに萩に曼殊沙華と秋の花が咲いている。秋薔薇は十月になってからだろうか。もう何年も前に鎌倉文学館の薔薇園に秋薔薇が咲いていた。ちょうど中原中也の展示をやっていて(今調べたら15年前の2007年のこと)芝生に座り、中也について著名作家とミュージシャンが対談しているのを聞いていたことがあったな。そんなことを思い出したから、いま本棚から中原中也詩集を引っ張り出して捲ってみる。秋の一日。

「今日の日の魂に合ふ 布切屑をでも探して来よう。」

ふと目に留まった詩の一節なんかをこうして切り出してみても、詩の全部から切り離されてしまったら、意味をなさないか。でも探して来よう。