覚えていないのに写真だけが残っている過去の一瞬

 6台目のHDDに1980年代に撮ったポジフイルムを接写した画像データを保存した。数台のHDDに同じ画像データを保存しておけばまず無くなることはないだろう、と思うからだが、実際のところ画像データが消えたところで何も問題はないに違いない。保存するついでにいくつかの画像ファイルを見てみる。すると覚えている写真があるかと思えば、なにも覚えていない写真もあった。接写したのが二年前だから、そのときにこの写真を見ているはずだけれど、覚えていなかった。1984年の夏だと思う、友だち4人とフェリーで北海道までオートバイ2台自家用車1台を運び、道内をぐるりと一周したことがあった。その一日目だろうか、霧の海沿いの道東、釧路から根室方面へ行く途中で撮った写真だと思われる。霧のなか水面ぎりぎりを飛ぶ鴎の写真。鴎の影が海面に映っている。青い写真だ。

 小さな子供の頃、誰かの言うことに対して、じゃあそれがいつのことか何年何月何日何時何分何秒か言ってみろ!そうしたら信じてやる、という定番のいじわるがあった。こういう自分がずいぶん昔に撮ったのだが、写真そのものも撮った場所も状況ももうなにも覚えていない、そういう写真を前にすると、過去の何年何月何日何時何分何秒という流れ去った「一瞬の現在」が過去にあって、その「一瞬の現在」に自分がカメラのファインダーをのぞき、そこには鴎が飛んでいて、ピントリングを回してシャッターボタンを押したということが、それは当たり前のことなのだが、当たり前の一方でなんだかとても不思議にも感じるのだ。去ってしまった過去の時間に自分が属していたという当たり前のことを、写真を見ながら、不思議に感じるのだ。そして写真は静止画だ。音も聞こえない、次の瞬間への変化もわからない、気温もわからない。その視覚の一瞬だけを記録したということが余計にそういう不思議を、不完全な環境再現だからこそ、そういう不思議を感じさせるのかもしれない。この感じが「写真」ということなのか、動画になるとこの不思議さは減るかもしれない。