秋の昼下がりにウォーホル展を見ました

 数日前に京都京セラ美術館でアンディ・ウォーホルの展示を見ました。展示された作品の各シリーズは概ね知っていて、あぁあれね、うんこれね、そうそれね、という感じでささっと見てしまったが、後からちょっと自分がダメだなと思いました。1996年に東京都現代美術館ではじめてウォーホルの大規模展示を見たときは、知らなかった作品も知っていた作品も含め、なんだか心が踊らされ、興奮してしまった、その高揚した気分を今も覚えています。知っているから、あぁあれね、で通り過ぎるのではなく、知っていてもあらためて見て感動できるのが大事なんじゃないか、そう出来なかったのは結局自分の感受性が、見るもの聞くものに対峙してこちらの心が動かされる心のしなやかさのようなことが、いつのまにか凝り固まっているんじゃないか。ウォーホルに限らず、最近は美術館で抽象画を見たときに、以前のように心が踊ったり、逆にこれは嫌いだと感じたり、抽象画とのあいだに身体性を結ぶようなことが減っているとも思います。結局なにが描かれているかが判ることで安心している自分になっている感じがします。そんなことをウォーホルを見終わって反省していました。無意識的にそう(若い頃のように)できないのなら意識的にそう心がけようと思った。

 ウォーホルの作品とは別に、ウォーホルが日本に来たときに(誰か担当を依頼されたカメラマンなのか友人なのかが撮った・・・)日々をスナップしたモノクロ写真が展示されていて、けっこう物静かな感じで写っている。ひとつひとつ見るもの(日本の器とか、ですかね?)に対してそれを理解しようと、吸収しようという真摯な感じが写っている。そして、これもいつもの私の傾向なんだけど肝心のウォーホルの作品より、このスナップ写真を見るのがいちばん面白かった。やれやれ、やっぱり基本は写真に惹かれるのです。