太陽の光はただだった

 1月3日に横浜市神奈川区京急子安駅から大口・妙蓮寺・白楽・反町・横浜(これらは東京急行電鉄JR東日本の駅名です)とウォーキングした。3日のブログにも書いたけれど、京急子安駅の改札は京浜急行線とJR東日本の線路に挟まれた「中州」にあり、その中州を数百メートル東京方面に進むと、二つの線路のあいだに隙間がなくなる。その隙間がなくなるぎりぎりまで一列に家が並んでいて、そこを歩きながら、そういえば村上春樹の小説にそんな場所の話があったことを思い出した。

 そのあと調べたら、ショートショート集の「カンガルー日和」に収録されている「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」という話がそれだとわかった。初出はイン☆ポケットではなかったです。作家はトレフルという雑誌に1981-83年にショートショートを連載していて、それを集めた本が「カンガルー日和」だそうだ。本棚から見つけ出したのは講談社文庫の1986年第二刷版で、短いその話を読んでみた。

 以下ネタバレあり。

 わたしが「中州」と書いたその土地の形状を村上春樹はホールのチーズ・ケーキから12分割したような土地と書いていた。話の中で、結婚したばかりの「僕」は、そのチーズ・ケーキの一番先端の家を借りる。振動と音さえ我慢すれば格安な物件というわけだった。私は、そんな家に住む二人が迎えた鉄道ストの日、一本も電車が来ない静かな日のことが、主に書かれていたと記憶していたが、読み直してみると、ストの日のことは最後の方のほんの6行に書かれているだけだった。『ストライキがあると、僕たちは本当に幸せだった。(中略)僕と彼女は猫を抱いて線路に降り、ひなたぼっこをした。まるで湖の底に座っているみたいに静かだった。僕たちは若くて、結婚したばかりで、太陽の光はただだった。』

 これを読んでなんで若かった私は「いいなぁ」と思ったんだろう。貧乏ゆえに騒音と振動を我慢する住環境にしか住めない、そういう暮らしをしているからこそ、静かなひなたぼっこが素晴らしく思えるわけだが、この前提の騒音や振動は苦痛であり、その苦痛がなければもしかするとストの日のひなたぼっこを幸せだなんて感じない。すなわちこれは貧しいことを卑下してるかもしれないし(ひなたぼっこがいいなんて感じる状況は打破しなければならない!みたいな・・・)、逆に富を得ることだけが幸せであるという考え方に抵抗しているのかもしれない(贅沢だから幸せとは限らないことを学べ!みたいな・・・・)。しかし、こんな風に分析しても仕方がない。本は、とくに小説や詩は、もっと感覚的に読んでもいいんだろう。そしてこれを読んだ二十代の私はこんな理屈や分析など考えもせずに、なんかいいな、と思ってその感覚だけがいまも記憶されていた。きっと貧乏とかお金持ちとかという尺度ではなくて、僕たち(この話だと若い夫婦と猫)が幸せを共感している、それがストの日だけということはさておき、そういう瞬間が描かれているのが好きだったんだと思う。太陽の光は無料であって、そこからも静かな幸せが得られるという瞬間が、いいなと思った・・・なんとまぁ、青臭いですねぇ(笑)

 写真は大口商店街近くにあった駐車場。冬の日差しは意外に濃い影を作ります。