車窓から一瞬に通り過ぎる河川敷を撮る

 電車の車窓から後ろに次々と飛び去って行く風景を撮ることをずっとやっています。コンパクトデジタルカメラが普及を始めた2004年頃から、機会あるたびに。だからこのブログにもそうやって撮った写真を何枚も使ってきました。そして、車窓からの風景を撮るとき「川を渡るとき」というのは、私にとって、撮るべき絶好の瞬間なのです。その結果、車窓から撮った河川敷の写真というのも、これも何枚も使っていると思います。この写真は今年の1月中旬、星野道夫展に行った帰りの電車から撮ったものです。

 写真家植田正治の写真の舞台となった鳥取砂丘は、広大なスタジオとも言える。そのスタジオで写真家はスナップではなく、自分でこうしたいという画面構成をモデルに指示して、だけど当然、雲や陽射しや風の様子は自然任せだから、そこから生じる偶然を受け入れて写真を作っていたのでしょう。河川敷の写真がときどき妙にフォトジェニックというのか写真的にいい感じになる、あるいは、なっちゃうのは、鳥取砂丘ほどではないけれどこのグラウンドという場所がスタジオのようにシンプルな背景として機能するのかもしれないな、などと写真を見ていて思いました。

 たまたま人の位置のバランスに「妙」があると、それは偶然の成し得た技が100%なのに、ちょっと自分の努力がかっこいい写真を撮ることに至れたように嬉しくなる。まぁ写真は数を撮れば「当たる」ことがあるから。数を撮ることが最重要だ、とスナップを撮る人たちの多くは言ってきたし、これも成果なのかしらね?

 アメリカのニューカラーの写真家たちの写真が好きなのは、一体自分のどこにそういう嗜好が生まれるきっかけになったのか。もちろんニューカラーではない多くの写真家の人たちの写真だって好きなものはたくさんあるけれど、でもエグルストンやショアやメイエロヴィッツや、そういうアメリカの写真家の写真を見るのはいいですね。そういう嗜好がこういう写真を選ぶことにつながっているんだろう。