川沿いの小路

 夜になり、今日の最高気温を調べてみて20℃を少し超えたくらいだったと知ったが、昼間にカメラを持って歩いているときは、もっと暑かったように感じていた。23℃かもっと、25℃くらいと思っていた。陽射しが明るく、その陽射しの中にいると暑かった。街行く人も、なかには短パン(という言い方はいまでも現役?ショートパンツ?)の男性もいたし、半袖のTシャツを着たカップルも見かけた。桜の花は満開を少し越えた。そして、葉を落としていた木々にいっせいに新緑が芽吹き始めた。両側をコンクリートの護岸で固められ、その内側には水の流れがあるだけで草が生える浅瀬の余地もない都会の小さな川沿いの護岸の上のフェンスと川沿いにぎっしり建ち並んでいる住宅のあいだに細い路が続いている。車が入って来られない道幅だ。自転車はよく通って行く。私鉄の駅まで自転車で行く人にとっては便利な道筋なのだろう。私が路に落ちた、並ぶ家のつくるでこぼこした影を写真に撮っていると、ベルの音を一つ二つ鳴らして自転車が過ぎて行った。川の水には桜の花びらが浮いている。一面の花筏などではなく、パラパラ振りかけたくらいに。ユリカモメが浮かんでいるがせいぜい三羽かもう少しだけ。次の橋まで歩こうと思い、その橋に着くと、その次の橋が見えたから、もうひとつ歩いてみようか、と思う。少し道幅の広い橋(道路)のところでやめたけれど。上空を飛行機が飛んでいく。空の中に飛行機のための目に見えない幹線道路があって、そこを次々に飛んでいく。たくさんの人がどこか遠くへ運ばれている。

 子供の頃、世界の果て、宇宙の果て、に思いを馳せるとそれが恐怖に変わったものだが、それでも考えた。顕微鏡のなかに目に見えない小さな世界が広がっていて、それが顕微鏡の倍率を上げたら上げたで、またそこに目には見えないけれどちゃんと世界がある・・・もしかすると、どんどん顕微鏡で拡大して拡大して・・・・見て行くと、そこにひとつの宇宙が全部収まっている世界の果てが現れて、永遠に小さいことが、永遠に大きいことに置き換わっているんじゃないか、と。

 新緑が芽生えつつある木は、三日前の晴れの日と、今日の晴れの日を比べると、全然違う姿になっているんだろう。何倍速かの動画にすれば、人の目にもその芽吹きの進む変化の様子がわかるが、そのときどきに目の前にそういう木があり、そこをじっと見ていても、すなわち時間の等倍速だと、芽吹きの変化が見て取れない。だけど今日見て、三日前のことを思い出し(あるいは写真で確認し)こんなに違っているとびっくりする。なんとなく等倍速で自然の変化がわからないことが悔しいと思うのが毎春のことです。