その後の日々があった今に

 数日前のブログにNDフィルターを付けてシャッター速度を遅くして撮った風に揺れる木の写真を使った。上の写真もその頃にそうやって撮ってあった砂浜の写真です。スローシャッターだから寄せては返す波がぶれて白くぼんやりと写っている。2011年の5月のある日の茅ケ崎の海岸。古い日付の写真を見ても、その日に撮った一連の写真をぜんぶ見ても、そんな日があったことをなにも思い出せない、そういう日がある。一方で写真がきっかけになってその日の行動を写真に写っていないことも含めて思い出せる場合もある。この写真の日のことはなにも思い出せない。2011年5月にこの海に向かって三脚を使ってカメラを設置した私。たぶん左端に人を置き、そうすると右に何人かの人が来るこの構図をいいと思ったのだろう。

 2011年の5月よりあとに知り合った人のことは、このときには知り合っていなかったわけだから、そういう人のことをこの写真を撮った日には考えてはいなかった。その当たり前の事実にちょっとびっくりする。でも撮ったときはそうだけど2023年のいま、この写真を見直した「今日のわたし」はそういう人を知っている。こういう風に文章にすると当たり前のことなんだけど、その当たり前の向こうにちょっと不思議な感じがする。その後の12年のあいだに知り合った人のことを心に思ういま。自分の心に写真を撮った日のその後に出会った人や行った場所、というより過ごした全部の新しい日々があらたにある。それを経たいまの私がこの写真を見て時間のことを考える。記憶には残らなくても、一度は通過してきたそれらの時間。今はもう忘れてしまったから思い出せないのだけれど、このときは忘れていなかったことを含めて、この写真を撮った日には心の中に今とは別のことがあって、その心を持って私は生きていたが、いまはそのときとは違う、入れ替わった(というイメージの)心を持っている。そりゃそうだよな、それが時間が流れるということなんだもの。

 ♪まだ間に合うんだ僕らはドリーマー♪この文章を聴きながらSpotify斉藤和義を聞いていたら、大橋トリオとのコラボによる「恋するライダー」が流れてきた。