私だけだった

 神奈川県立近代美術館葉山で佐藤忠良生誕110年傑作誕生という展示を見た。ブロンズの女性の彫刻像に見惚れてしまった。彫刻作品をたくさん見てきたわけでもないし、佐藤忠良の名前も知らなかった。展示されていた「帽子・夏」という作品は、いつかどこかで、彫刻そのものではなく、それが撮られた写真で見たことがあったと思う。その程度の鑑賞者だからもしかすると的外れな感想かもしれないが、この人の彫刻作品は「女性」を美しいフォルム(立体物)としてとらえてその美しさを見せようとしているだけではなく、人としての女性の暖かさや柔らかさや優しさに溢れている。男性にはない女性性を、男性である作者が賛美しながら制作したように感じる。その製作者の愛情を受けて、この彫刻達は生きていて、夜になると動き出して、悩みや夢を語り合ってさえいそうだ。

 そんなことを考えたあとに、美術館を出て、隣接したしおさい博物館と美術館のあいだの小路を砂浜に向かって下る。ウェディングフォトの撮影をしている。遠くの背景に海が見えて、木漏れ日が揺れる博物館の壁に寄り掛かるように、結婚する二人がドレスを着て立ち、カメラマンが指示を出している。彼らの横を抜けて、階段を降りると砂浜に着いた。薄曇り。晴れていれば正面に見える富士山も今日は見えない。砂浜には幼い子供を連れた家族や、仲間と連れ立って遊びに来た、さまざまな年齢層の複数のグループが、あちこちで遊んでいるのが目に付く。恋人や夫婦もいる。そういう中に、一人で来ている男が、あちらに一人、こちらに一人と立っている。彼らはあまり動かない。じっと海を見ている。

 海を前にしてなにを考えているのかはわからない。今日は富士山が見えないな、波は小さい、雲間からさしている日の光のことを天使の梯子って言うんだっけ?あそこにはその梯子が降りてきらきら海面が輝いているな、おぉ大きな魚が跳ねた、意外にすぐそこにあんな大きな魚が泳いでいるんだな・・・と目に見えること、五感で感じている今を言葉に置き換えて追認している人もいるに違いない。でも、一方で、この町の将来を考えたり、恋人との関係をどう進めるかを思案したり、将来の夢をより具体的につかもうと思っていたり、うまく行っていない仕事の解決策を練ったり、あらためて誰かに対して怒りを感じたり、そういうことも考えている。そういうことがごちゃ混ぜになっているに違いない。富士山が見えないなと思った後に、今月の生活費について考え、天使の梯子がきれいだなと感じたあとに、上司に対してどう説得すべきかを考える。海を見に来ている男の胸中だけの話ではないけれど、一人で砂浜にいる男を見ていると〜自分もその一人なんだけど〜人の心はいつもこんな感じで、写真で言うわれるミラーorウィンドウだと思う。鏡は写真家の表現(写真家の考えや個性が作品に鏡に写るように表現として現れる)で、窓は写真家が見ている外界を写真で再提示することを主目的としている写真。一人の写真家の意識も、一枚の写真を誰かが見るときも、その鏡と窓のあいだを行ったり来たりして撮ったり鑑賞したりしている。平均値としてどっちよりの写真家、というような捉え方には使える可能性はあるが、いずれにせよミラーとウィンドウは混然一体だと思う。人の心と同じように。

 階段のすぐ下でそんなことを考えていると、すぐ後ろ、美術館の壁の向こうから張り出している木の入り組んだ枝の中からガビチョウの大きな囀りが聞こえてくる。周りにいる人たちが一斉に鳴き声の方を見て、次々に、鳥の姿を見つけていく。誰かが見つけて、一緒にいる誰かに、ほらすぐそこの横に伸びている太い枝のところだよ、と教えている。あ、いたいた、とすぐに一緒にいる誰かが答える。一人で来ている人も、うんうんと頷いて、どうやら見つけたらしい。鳥が飛び立っていくまでのあいだ、最後までその姿を見つけられなかったのは、私だけだった。