音楽の力を

 昨日のNHKテレビ、アナザー・ストーリーで、1985年に発売された、アフリカの干ばつにより被害を被っている人々を救うためにアメリカのミュージシャンたちが一堂に介して歌われた曲「We are the world」が取り上げられていた。番組のテーマは歌手のプリンスの参加を促すために、企画側がプリンスの恋人だったシーラEを利用したこと、恋人を利用されたことを怒ったプリンスは最後までシングル盤となり発売後にすぐに大ヒットしたその曲を収録するスタジオには現れず、企画側の思い描いたマイケル・ジャクソンとプリンスの競演は実現しなかったこと、そしてシングル盤のあとに発売されたLPに、プリンスは新曲を作り歌い無償で提供したことで、アフリカを助けたい意志を示した、そういう内容だった。

 当時、私は、雑誌ポパイかブルータスに載っていたこの曲の記事、粗い印刷のモノクロページの記事から、ミュージシャンが集まったシングル盤のジャケットに使われた写真(それはページの片隅にあったせいぜいサービス版サイズ、いまでいうLサイズよりすこし大きな大きさだった)を切り抜いて、額に入れて部屋に飾った。たしかシングルレコードを持っていたと思う、すなわちちゃんとしたカラーのジャケットを持っていたけれど、なんとなく粗い点で構成され印刷された低画素のモノクロ写真印刷がカッコいいと思ったのだろう。その飾っていた切り抜いた写真もいつだったか、引っ越しのときかリフォームのときか、捨ててしまったが。 

 少し前に、同じNHKテレビの映像の世紀だったろうか世界サブカル史かもしれない、まぁ最近はそういう番組しか見てないですね、そういう番組で、新宿の地下広場で歌われた反戦歌のことや、世界各地に自由と平和を求めたレノン・ウォールがあり、イマジンがそれを象徴する曲になっていることや、チェコビロード革命の歴史のなかで歌がたとえばビートルズルー・リードの曲がどれだけ象徴になっていたが、取り上げられている。それからそういう話ほどの大きさはないかもしれないけど、はじめてサッカーのワールドカップ予選を勝ち抜いて本選に進出した1998年のフランス大会の予選(1997年かな?)では、むかし赤い鳥が歌った「翼をください」がサポーターの心をひとつにしていた。音楽の役割ってなんだろう?いや、役割はたくさんあるけれど、そのなかになにかの結果を目指す、あるいは平和を目指す、そういう人々の心をひとつにするというパワーがある、または、あった。

 二年?三年?前から戦争の時代になってしまった。パリのオリンピックが無事に開幕し、選手たちがそれぞれの持っている力を発揮できればいい、もし発揮できなくても責めないし、どんな結果にもよく頑張った、と褒めたい。観客として自分がそういう観戦できるように心がけたい。

 それから、なにか歌の力がこの大会を機に世界を包み込んでくれて、力にならないかなぁ、と期待しています。それとも、もう歌の力が通じないほど暴力的で分断された地球になってしまっているのか・・・

 

エアコン普及率変化

 思うに、18歳から22歳までの学生時代に暮らしていた間借りの部屋には冷房なんかなかったな。大学時代は、7月上旬から9月第一週目くらいまで、長い夏休みだったから、いちばん暑い日々にはそこにはいなかった、だからなんとかなっていたのか?だけど・・・さらに思うに、高校時代の私の家は父が勤めていた病院の職員用のアパートだったが、そこにだって冷房装置なんかなかったんじゃないか?えっ、さらに思うに、会社に入った最初の6年のあいだ住んでいた寮には、暖房用の暖気パイプが各室に通っていたものの、やはり冷房装置は個々の部屋にはなかったんじゃないだろうか?一体、どうやって夏を過ごしていたのか?網戸のある窓を全開にして、蚊取り線香を焚いて、扇風機を回していたんだろう。いまや、大都市圏というのか平野部というのか、冷房がないと熱中症で死んじゃいますよ、というくらいで、冷房があることが暮らしの「マスト」な感じ。では一体いつからそんなに冷房が普及したんだろう。1980年代の中ごろだろうか?それで、またも暇つぶし的に、調べてみたら「シニアライフ総研」というHPのなかの記事に普及率推移グラフが載っていて、1980年が30%台、1985年が50%、1990年が60%台だったようです。それでも暑くて暑くてどうしようもないほど苦しかったなんて思い出はないんだよなあ。戸締りに関してもいまよりずっと適当で窓も開けっぱなしだった。そうそう、電車やバスだって、移行期にはエアコンありの車両に当たったり、なしに当たってがっかりしたりだった。

 こんなに地球が暑くなってしまうまえにエアコンの普及率が上がっていたから救われた、とも考えられるけれど、エアコンもそのひとつの例であるように機器の普及が進んだ、そのために使われるエネルギーが増えて地球温暖化が進んだ、とも言えるんじゃないか?すなわち卵が先かにわとりが先か問題がここに縮図になっているのでしょう。夏の昼下がりに水を打ち、暮れ時になれば外に出て涼み、そこでご近所さんと少し会話して。ご近所通しで、野菜や、ときには作り過ぎた料理を分け合うこともありましたね。子供も、誰かが花火をやっていれば、なんとなくわかるから、外に出て行って、加わる。

 さて、またもや、むかしを懐かしんでいてどうするんだ、と。ええと・・・暇つぶしと言えば、ひつまぶし という鰻料理がありますね。「ま」と「つ」の順番違いのふたつの単語です。ずいぶんまえちょっと高級な鰻の店で、会社の上司と思われるスーツを着た50年配の男性が、部下の20-30代の女性とカウンター席に並んでいました。どういう関係のお二人かはわかりません。部下じゃなくて娘だったかもしれない。それで、そのお二人が、ひとしきり鰻串などなどで飲んだあとに、男性が「ひまつぶし、お願い」と言ったんですね。おっ!大丈夫か?と思いましたが、誰も、連れの女性も店側の方も、それを指摘はしなかった。

 かくいう私も、ふくらはぎ、を、ふくろはぎ、だとずっと思っていたな。

無題

 ラビットアイブルーベリーと、植物名札に掠れた文字で書いてありました。真夏の植物園にて。

 

 どこまで厳格で、どこまで寛容であるべきか、というのはその人の考え方次第だからいろいろな意見があってよい、というか、ある方が良いし、ひとつの事案に関してはひとつの結果がつきまとい、ひとつひとつの結果を並べると、あの場合はこうだったけれどこっちの場合は別だった、と、そこには差も生まれるが、それを集積して中心値とばらつき範囲を見ようとすれば、そこには時代の気分とか社会のリアルタイムの傾向、あるいは民族性というのか国民性なのかな、そういうことが俯瞰して見えるのではないかな。そして俯瞰して見ると、時代時代で、春の霞のように柔らかく優しくやんわりと諭して包み込むこともあれば、台風一過の夏の朝のように、あるいは放射冷却が起きた極寒の快晴の冬の日のように先鋭で明瞭で容赦ないこともある。嵐の日のように吹きすさぶ風に立っていられず、ただ翻弄されてしまう日も。いまは優しく包んでくれる時代か、容赦ない時代か、それとも、翻弄されるだけのすさんだ時代なのか。むかしは夜は暗くて、だから、たとえば忍び逢う恋だって、夜霧が包んでくれていた。

 何年か前から18歳が成人になる年齢になったようだが、そんな決まりをさて置いて、19歳には未来があり、それはもっと上の大人が守ってあげるべきことだ。その人が一般人には判らないほどの猛烈な努力が出来て、夢が持てて、結果、多くの人の期待を背負ってしまい、その多くの人は無責任に結果が出ないと掌返しで糾弾し、ストレスにさらされ続けた、その逃げ道としてちょっとだけ間違いを起こした。そうしたら、もうするな、と諭せばいいだけのこと。

 飲酒事故や信号無視などの違反による加害事故ならば会社を退職せねばならない制裁もあるでしょう、だけども、時速50km/hの道路を15キロオーバーで切符を切られたからといって、会社を馘にはならないのが常識。切符切られて諭されて、あぁ安全運転しなきゃなあ・・・って思うもの。普通の高校生が、家で一杯だけ親に「飲んでみぃや」と言われてビールを飲んだのを見ていた誰かが学校に告発しても退学にならないでしょう。

 それなのに努力の結果の日本一と引き換えに有名になり、有名だからこそネット記事にさらされ、実名を報道され、たぶんこの先の未来を真っ黒に塗りつぶされてしまった。チームに対する責任感に苛まれて精神的に、この先、もうもたないんじゃないか。いちばん悪いのは諭せなかった大人、気づけなかった大人。結果としてひとりの若い人をだめにしてしまったかもしれない。反論はいっぱいあるでしょう、そして、それを聞けば、そうかなぁとも思う。だけどやはり、やるせないです。

静かに夜が来る

 午後六時を過ぎてから、相模川の河口近くにある茅ケ崎市の柳島運動公園まで車で行き、その付近を一時間半ほどかけて写真を撮りながら歩いてきました。2021年に病気が見つかり外科手術をしたのですが、そのあとになるべく歩くように医者から指導されていて、また同時にコロナ禍の最中で在宅勤務が当たり前だったぶん、運動不足にならないことに今よりすごく意識的で(結果として当時の方がずっと健康的に暮らしていた)、このコースのウォーキングをよくしたものでした。今の方がよほど運動不足になってしまったな。今日はそんなことを思い、あの頃のように夏の(そういえば、梅雨が開けたそうですね!)夕暮れときの海辺を見に行ったわけです。

 友だちがいるのはいいな。高校時代や大学時代には友だちが近くにいて、日常のなかに友だちと会って話すということが当たり前にありました。会社に入って寮で暮らしているときにも同じ寮に住んでいた連中とは日常のなかで話したり笑ったり遊びに行ったり食事に行ったりしていたが、わたしの場合は寮で一緒だった連中には今も付き合い続けているような気の合う人はどうやらいなかったようです。

 写真に写っている二人も、すごい久しぶりに会った日が今日であって、日常のなかに当たり前にいる関係の友だちじゃないのかもしれないけれど、そこはもちろん判らないのですが、見ていて思ったのはこの二人は近所に住んでいて、気が合って、時間があれば会ってはとりとめもないことを話しているんじゃないか?ということで、それは羨ましい。友だちというか相棒というのか。村上春樹の小説では「チームを組む」と書かれていた「僕」と「ねずみ」のような関係。

 私にも友だちはいます。多くはないかもしれないけれど。だけど、高校時代大学時代のように日常のなかでしょっちゅう会って過ごしたような友だちはいまはいない。近所に会えば話して、年に一度くらいは一緒に飲んでというくらいの知り合いはいますよ。だけど、そう、上記の「僕」と「ねずみ」のような関係の近くにいる友だちはいないと思います。まぁ、そういうもんだろうな、大人になってもすぐ近所に友だちがいる人もいるだろうけれど、高校時代や大学時代の当たり前にそういう条件の中にいるとはだいぶ違うから、私のような人も多いんだろうな。

 散歩している時刻、六時から七時半、だんだん暗くなる。人の目で感じる以上に世の中の明るさが暗くなっているのは、カメラのEVFに表示されるISO感度とかシャッター速度を見ているとよくわかるのです。静かに夜が来る。夜を前にして鳥たちがたくさん飛んでいた。またこの時刻に散歩をしよう。

桔梗

 鎌倉市の大船フラワーセンター、最寄り駅はJR東日本東海道線(東京-熱海、それより西はJR東海エリアになります)の大船駅で、鎌倉と言ってもJR東日本横須賀線鎌倉駅北鎌倉駅ではない、すなわち観光地として神社仏閣が多くある鎌倉からはちょっと離れた場所にあります。数回前のブログにも書きましたが・・・あれ?書いただろうか?・・・このフラワーセンターでは土日を中心に7:00の早朝開園をしていて、先日の三連休の某日、再度行ってみました。早朝開園の目玉は睡蓮および蓮の花なのですが、桔梗がたくさん咲いている場所もありました。枯れた花、開いている花、蕾、と一本の桔梗にその三つが同時に付いています。本当は枯れた花、茶色くなった花びらも撮るべき、それが自然を愛でて、当たり前に接している証じゃないか?と思いながらも、結局は、この二枚もそうですが、枯れた花は写らないまたは目立たないようにと、撮る場所を定めてしまいました。きれいなところだけに目を向けて、本質や汚れ仕事は見ていない、と言う社会的なことに当てはめて、そんな撮り方をしている自分に批判的になっているのは、ちょっと考えすぎでおかしいことなのだろうか?二十年かもっと前だろう、アラーキーがよく枯れた花を撮っていたのを思い出しました。

 昨日かな?スマホでニュースを読んでいたら、巨人と阪神のOB試合があったのかな?そこに江夏とクロマティが車椅子で出場したと書いてあり、写真も載っていました。江夏選手・・・わたしが小学生の頃だったかな、東芝製のAMラジオから流れていた野球中継で、江夏はノーヒットノーランを続けながら味方も点を取れずに延長になった試合を聴いていました。記憶が間違ってなければ、さらにそのときの江夏は身体のどこかに故障があって満身創痍で投げていたんじゃなかったかな?それで延長に入って、最後は江夏自身がサヨナラホームランを打った・・・と思います、記憶ですから曖昧ですが・・・それをラジオで聴いていて、小学生の私は、すごく感動したものです。

 それから十年ちょっと過ぎて、今度は日本シリーズの「江夏の21球」として知られる、ノーアウト満塁から一点も取られずに試合に勝ったというこれも伝説の投球があり、それはラジオではなくテレビで見ていました。あれも感動したなあ。その江夏が車いすに乗っているのはちょっとショックでした。当たり前だけど人は、自分自身も、こういうふうに年を取ってしまうということを思いました。

 ところで記憶に残っているスポーツの名場面をいくつか挙げてみろ、と言われるとなにが浮かぶんだろう?上記の江夏の試合はもちろんのこと。そう言えば江夏がオールスターで九連続三振をとったときもリアルタイムでテレビ観戦していましたね。

 五年くらいまえの湘南対浦和のサッカーで、誤審により得点が認められないまま0-2で負けていた湘南が、後半に怒涛の攻撃をして、ロスタイムに元日本代表のいまはアメリカでプレイしている山根選手のロングシュートで3-2と試合をひっくり返した、あのときも感動したものだ・・・他にもいくつも思い出せますね。

 江夏さん、元気でいて欲しい。

三連休でしたが、それも終わります

 出張があったり何十年来の友人と居酒屋に飲みに行ったりした先週が過ぎて、三連休ももう終わろうとしています。三連休は雨模様になると天気予報が伝えていて、たしかに雨が降っていた時間帯もあったけれど、曇りが多く、日が差すと急にもわっと暑くなったりで、雨で憂鬱で出歩けない、という風ではなかったですね。そしていつも休日が終わると後悔することになっているのが読書が出来なかったまたはほとんど出来なかったということで、その程度がどんどんひどくなっている。理由は明らかで、スマホを操作してしまうからなんだよなぁ。あれってなんだっけ?・・・すなわち、あの人の名前を度忘れして思い出せないから調べよう、聞こえているこの曲は誰の曲だかスマホに聞かせて調べてみよう、あの人のあの本はもう文庫化されたっけ?調べよう、どこかいい旅行先がないものか東北地方の温泉でも調べてみるか、昨日の勝利で湘南ベルマーレは何位になったのかな?(・・・なんだまだ降格圏から脱していないのか、残念)部屋のポータブルエアコンの排水タンクにしているバケツを大きくしたいのでアマゾンで買おうかな、1950年代の欲しいあのレンズがメルカリに新たに出てない?・・・と次々にスマホを手にすることが発生してしまう。そして調べなくても済むといえば済むんだけど、でもちょっと調べるとわかるんだから調べてもいいじゃない、という感じもするが、それがあまりにも多発してしまうからいつのまにか数十分どころか数時間過ぎている。電車の中でもそうだよなあ。それで読書の方が割を食ってしまう感じがするのです。だからこれはもう意識的に時間制限を掛けるしかないのだろうか。

 でもこうして写真を撮っている時間も増えているから、それも読書時間を減らしている一因になっているんだろう。このひと月のあいだに二本のオールドレンズを買ってしまったので、撮ってみたくなりますね。それも逆光で開放で意地悪をしている。レンズの個性が出るような撮影に意識的になってしまう。

 車を運転しているとき、久々にニール・ヤングのzumaを聴いてみた。大学生のときによく聴いたものです。Don't cry no tears around me の入っているアルバムです。

 もうすぐ24:00だから本当に三連休がおしまいですね。おやすみなさい。

ZUMA

ZUMA

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こんな感じの写真がよくアルバムに貼ってあった

 またもや思い出話ですが、昭和の頃の、それも1960年代ころまでは家族の記録やスナップはまだモノクロ写真で撮られているのが主流でした。たぶん64年の東京五輪の頃にカラーフィルムが出はじめて、70年の万博の頃から一気に広まって、70年代の後半にはよしだたくろうが「色っぽいということはええことなんよ、ええことはすすんでやってみるもんよ、天然色写真を撮ってみんしゃい、ぼくらはもともと色っぽいはずよ、HAVE A NICE DAY FUJICOLOR」(歌詞はあらためて調べずにわたしの記憶に頼って書いているのでだいぶ違うかも)と歌うCMソングがテレビからお茶の間(!いまは居間とかリビングとか言うのだろう)に繰り返し流れていたから、ネガカラーフィルムはこの頃に右肩上がりで販売量が増えていたんじゃないだろうか?という「歴史」があって、それゆえ、ボール紙を両面ともにちょっと上質にした写真台紙がリングで綴じられ、大層な厚手の表紙を持った「写真用アルバム」に、やはり富士フイルムなどが発売していた写真糊(写真用ボンドって言ってたかも)で、街のDPE店で引き伸ばした名刺判とかサービス版、あるいは手札版、もっと大きいとキャビネ版、に焼いた写真を貼って作られていた家族の記録アルバムをめくると、70年代頃を境にそれ以前はモノクロ主流、それ以降は速やかにカラーばかり、になっていったはず。そして、上の写真は、昨日のブログでも書いた通り1959年発売の標準レンズが結像した像だから、デジタルカメラで撮ってパソコン等のモニターで見ているという大きな違いはあるものの、ピント面に結んだ結像は当時と変わらない像であり、それゆえ、この写真をパソコンモニター上とは言え、見ていると、あぁそうそう!60年代のアルバムにはこういう写真が貼ってあったなぁ、白縁のあるプリントでフェロ掛けにより滑面に仕上げてあった、アルバムを何度も捲っているうちにいつのまにか写真の角が折れ曲がったりしていた。そしてこういう写真は家族が並んで立って笑顔を浮かべていたり、主に子供たちが遊んでいるところをスナップした家族が写っている写真のあいだに、ふと差し込まれて貼られていたなぁ、と思いました。

 当時は今と違って家族の中で男親はおかずを一品多く食べられるといった優位な位置にいて、女親は内助の功で家事にいそしみ子供を育てる、ということがもう生まれたときからそういうものだと洗脳されていて当たり前だった。すいません、私だってそういう常識を当たり前と思って生きてきた。虎子さんの朝ドラを見ているとそこに風穴を開けて行くことがいかに困難だったかわかりますね。そしてその洗脳からの解放が2024年になってもまだ、例えば欧米諸国よりずっと遅れていて、結局いまは経済的には共働きが必須な時代になっているのに、家事は女性がやるものといった、ずっと以前から自動的に植え付けらえた常識のような考え方が消えきってはいないのでしょう。もしかすると地域のいろんな背景によっては、そんなこといきなり出来ないというような社会構造もあるかもしれない。だからいきなり会社のなかの女性管理職の%を上げろとか女性議員が少ないと言っても、それは、過去5年10年20年の意識改革の結果の今なんだから、それを喫緊の早急に解決すべき目標にするのは無理がある気がします。まずこの洗脳されてきた、そしてそれでも当時はちゃんと幸せな家族と社会がある程度回っていたその常識を変えるところから始めないと本質は変わらない。たぶん少子化もそこから変わらないと止まらない。これ、ポッドキャスト番組「オーバー・ザ・サン」をここ数年聞いて来たうちに学んだというかやっと気が付いたようなことなんです。

 と話が急にとんだ感じがありましたが、当時、1960年代、糊を使って写真をアルバムに貼っていた、そのレイアウトに個人の美意識の差が現れたり、手書きの万年筆の字で写真にちょっとしたメモが添えられていた、そんな時代の家族写真は、これまたほとんどの場合は男親が撮っていたんじゃないか、と思うわけです。そういう当時のお父さんたちは、それはそれで高度成長期の、いまほど個人が保護されないいまの基準から言えばハラスメントだらけの会社のなかで必死に働いていました。これはこれですごいことだ。彼らが国の発展、戦後復興を担ってがんばってきました。そういうお父さんが、休日に家族とハレの日を過ごす、その時間のなかで、ふと目を留めた風景/光景が、家族スナップに混じって家族のいない写真が、36枚撮りのフイルムのなかに一枚か二枚かせいぜい三枚残されている。それがこんな写真ではなかったかな?とふと思ったわけです。

 夏の薔薇です。五月連休の頃にこの薔薇園は多くの人でごったがえします。いまは夏になり薔薇園にはほとんど人がいません。それでも薔薇の花は五月連休ほどたくさんの花が、綺麗で大きな花が、たくさん咲き誇っているわけではないです。でも咲いているんですよね、真夏の薔薇園には薔薇の花が。五月の薔薇園は手入れもされているのか、もう盛りを過ぎた枯れつつあるあるいは枯れた花はありませんでしたが、いまは手入れもそれほどされていないのか一つの株には蕾もあれば見ごろもあれば枯れた花もあります。それが自然ということですね。