YOKOHAMA

f:id:misaki-taku:20200704232455j:plain

仕事のパターンがほぼコロナ前に戻ったら、それでもコロナのために増えている仕事がたくさんあって、通勤時間と残業時間が増えてしまい、頻繁に更新していたこのブログを書くことが難しくなった感じ。

久しぶりに横浜駅あたりを歩く。オープンしたばかりというCIALにはすごい人出。以前は街角スナップに写る人たちがマスクをしているとちょっと興ざめで避けたいところだったが、いまはマスクをした人ばかり写るし、撮っている私だってもちろんマスクをしている。そしてそれも同時代の当然の風景なのだから、マスクの人ばかりの街角を撮ることが今の街角スナップなのだろう。でもやっぱりなんか撮るパワーが出ない。

ビルのあいだを湿った強風が吹き抜けていく。私はちょっと青っぽいグレーのTシャツと紺色のチューリップハットのような帽子を買ってみました。

日比がずんずん過ぎていく。

絞り染めのような海

f:id:misaki-taku:20200621151416j:plain

もしかしたら6月末まで駐車場が閉鎖されているのではなかったかな?と思いながらも、自家用車で湘南平まで上がってみたら、もう駐車場は開いていて、しかも大きな駐車場も七割くらいは埋まっていたので驚いてしまった。地元は湘南ナンバーと相模ナンバーなのだが、見ると横浜ナンバーなど、ちょっとだけ離れた県内から来ている人もいるようだった。山道を汗をかきながら息を荒げて登ってきたわけではないが、眼下に広がる海が見えた瞬間には、おっ!と思う。例えば雲一つない青空の下に、広く海が広がっていて日の光が反射して太陽が見えるようなときにも、おっ!と思うだろうけれど、それよりも複雑なグラデーションが空にも海面にも出来ていて、その「予定外」な感じ?「予想外」かな?その風景への驚きが強い「おっ!」なのだった。だから前述のように、山道の木々が茂る中を上って来てこの風景が見えた瞬間は、もっと感動というのか心の動かされ方が大きいのだろうと想像して、そんなことはするわけもないのに、そんな風であったらと憧れる感じがしたのか。

種田山頭火がこの風景を見たら、どんな句を詠むのかなぁ?

「分け入っても分け入っても青い山」

の先にこの風景が一瞬に拓けたら、その気持ちを。

 

シャッターを押すこと

f:id:misaki-taku:20200620194430j:plain

新型コロナウイルス感染症防止のための自粛によって、長いこと美術館やギャラリーに行くことが出来なかった。自粛前に最後に展示を見たのはいつで、何の展示を見たのだろうか。東京との一日あたりの感染者数はあいかわらず二桁の日が続いていて、一時期の一桁前半人からみるとずいぶん悪化しているようだが、19日からは都道府県をまたぐ不要不急の移動自粛も解除となった。今日の土曜は、好天にも恵まれて、すっかり自粛前のようだった。行政としては一般には公知になっていない判断基準があって、二桁とは言っても、実は検査者に対する陽性者割合とか、発生地が広いか狭いかや、感染経路がわかっている率とか、そういうのを合わせて判断してくれているから大丈夫なんだろうな・・・と思いたいところ。

東京都写真美術館で、森山大道展「TOKYO ON GOING」と「写真とファッション~90年代以降の関係性を探る」を見てきた。

森山大道の写真を見て、美術館から外に出る。美術館近くのブリック・ロードの店が二軒?店じまいになっていた。それがコロナ禍の影響なのかどうかは判らないが、うち一軒で以前に食べたカレーが美味しかったことを思い出す。恵比寿駅に戻る道筋で、どんどん写真を撮る。写真展を見終わると、写真を撮りたくなる、というよくある話。

森山大道の写真は綺麗に並べられた展示よりも、ブックで見た方がいいのかしら。美術館での展示ももちろん悪くなかったが、買った図録がとてもいい。美術館で見て気になった写真と、ブックをめくって「くぅー、いいねぇ、かっこいいねぇ」と感じる写真が必ずしも一致していない。写真の大きさ、本の紙の手触り、色合い(図録のモノクロ写真は若干黄色というか金色風になっている、セピアではなくて)などという写真に写っている写真そのものの力ではないところが、写真の力をアシストしたり、足を引っ張ったりしている。なんて書くと当たり前なんだけど、あらためて、そうなんだな、と思うのだった。

ときどき、ロック音楽のアルバムの評価が、最近のデジタルリマスタリングとか、あるいは多チャンネルでの録音が残っている場合は、ミックスからやり直したり、オーバーダビングした音を除いたりして、同じ録音ベースでも新しく生まれ変わることで、評価が一変して、たいていはいままでの評価を覆す方向で高評価となることがありますね。「レット・イット・ビー・ネイキッド」とかはストリングスを取り除いてシンプルなビートルズの演奏だけを聞かせている。とはいえ、発売当時の「レット・イット・ビー」はストリングスが被せてあるわけで、いくら「ネイキッド」の方がいいよね、と思ってもオリジナル・アルバムを置き換えられるわけではないのだが。ザ・バンドの三枚目の「ステージ・フライト」は、一枚目の「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」や二枚目の「ザ・バンド」(通称ブラウン・アルバム)よりも低い評価だったようだが、何年かのCD化のときにのリマスタリングで生まれ変わったと言われているアルバムらしい。

写真も、同じネガなりデジタル情報から、展示にするかブックにするか、大きさはどうするか、コントラストは、カラーかモノクロか、等、いろんないろんな見せ方の「差」がある。なんてことは当たり前のことだけど。展示会場の違いももちろん大きな差だろう。写真に値段を付けて経済に乗せるための言い訳としてかもしれない「ビンテージ」プリント(=作家の最初の意図が現れている)の価値ということと、写真という表現メディアの持っている「複製可能」という特性や、「データまたはフイルム」は原版であり最終成果そのものではないということは、相容れない感じだ。

といったことは撮っているときは関係ないですね。だから撮る行為は気持ちが単純になっていて、写真がそこに残ろうが残らなかろうが、思い通りに写っていようが写っていなかろうが、そこでシャッターを押すことだけで十分なのではないか。そこから先のことは「別のこと」なのではないか。

f:id:misaki-taku:20200620194500j:plain

 

f:id:misaki-taku:20200614192156j:plain

そうですね、たしかに例年ならば、ここに何軒かの海の家が並ぶころです。夕暮れ時に自転車で茅ヶ崎海岸まで行ってみる。マスクをして自転車を漕いでいると走っているときはまだしも信号で停まったりすると結構暑くて苦しくなる。そういうときも周りを見ると、人はほとんどいないんですね。5m向こうに一人、10m向こうに一人、一瞬すれ違うひとが2mくらいに接近することが数度。マスクをしている人は50~70%くらいの印象。そしてもっと近い距離に仲間がいる子供たちのサッカーの練習などは誰もマスクなんかしてませんね。マスクっていちど掛けてしまうと、なかなか外したりずらしたりしなくなる。気が付くと苦しくなっている、それまでそのままにしている。本当は少なくともこのくらいの状況だと、風も吹いている屋外だし、マスクなんか意味をなしてないのではないかな、とも思うが誰も正解を言わないからわからないので結局ずーっとマスクをしているのだった。

撮っている写真はいつもと同じですね。いい加減にしろという気も起きない。オートマチックに撮っている。犬が電信柱ごとに足を上げる(ってわけでもないんだろうけど、イメージとしての比喩ですが・・・)のと同じ感じかもしれない。

それで、昨日の「カバーを被った車」と同様に、なんでこういう広い場所に人がぱらぱらといる風景写真が好きなのかも、その理由が、私はわからない。

f:id:misaki-taku:20200614192220j:plain

 

包装された中身

f:id:misaki-taku:20200614185713j:plain

夕方、いつもの「畑コース」にちょっとだけアレンジして別の道筋を混ぜると、当たり前だけど知らない光景が増える。いや、同じ道筋だって日々違う光景になっているのだが、光や草花や雲や風が、だけど、やはり「そこにあるもの」が違うのだから判りやすく「知らない光景」なのだ。

カバーを被った車は、ロバート・フランクの「アメリカ人」、私の持っている1986年のランダムハウス版だと76ページに「Covered Car ~ Long Beach,California」という写真があって、たぶん私にとってはきっとこの写真が「見本」として刷り込まれている。刷り込みの力は甚大で、カバーの被った車を見ると写真を撮りたくなる。あまりに撮りたくなるから意識的に撮らないようにしているくらいだ。風が吹いている日にカバーが膨れたり縮んだりするのも面白いから、そういうときはやっぱりカメラを向けてしまう。

でもなんでだ?なんでロバート・フランクはカバーの被った写真を撮ったのだろう。ロバート・フランクにもさらに「見本」があったのかな。

もしかしたら、中身が車だとは判るけれど、でも赤裸々にどんな車かは判らないから興味深い、という気持ちは、ちょっと性的な興味に近いのかしら。よく言う、チラ見せでそそられる的なこと。いや、しかし、ではカバーの被った車のそのカバーを捲ってしまってなにの車種なのかを知りたいぞ!とはあまり思わないな。

だからそういうチラ見せではなくて、やはり本来はしょっちゅう使われる自動車という移動手段にカバーをかけてしまっているということが思わせる、長い(不本意かもしれない)休み時間や、あるいは機関車トーマスのように自動車を擬人化してみたときに、その自動車が使われていない哀しさとか、一方で使われていない「休み時間」に擬人化してみた自家用車が休んでいる風景にのほほんとした何かを感じている、とか?

撮っていながら、撮りたい理由がわからない。だから写真を撮るということは理屈ではないのだと思いますね。だけど選んだり見たりするときに、その理屈ではない「自由」に束縛が生じているのではないだろうか?

理由はよくわからないがカバーを被った車は、私にとって「被写体」なのです。

黒コショウ

f:id:misaki-taku:20200607163604j:plain

自転車で22kmほど走ってきました。海の方。22kmと言うのはスマートウォッチのデータです。途中、辻堂駅近く、居酒屋が店の前に出したテーブルで弁当を売っていたので、なんとなく自転車を停めて「ガパオライス」を買って帰った。しかし黒コショウが多すぎでしょ!辛い辛い、痺れる痺れる。買ったものが「美味しくなかった」というのも珍しい気がする。

海にはそこそこ人がいましたが、ずっと気持ちの良い風が吹いていて、すれ違うときに人と人が接近することはあるけれど、マスクをしている人も多いし、総じて海にいるあいだは安全に思えた。行き帰りのコンビニとかレストランとかファストフード店とかは気を付けるべきですね。手洗い敢行。

はてさて、ほかに書きたいこともないな。テレビでは孤独のグルメをやっています(いま16:46)。松重さん(井の頭五郎というより松重さんそのものな感じ)下仁田の大衆中華の店でタンメンと餃子を食べている。

2002年から2017年まで北関東U市に単身で住んでいたころ、アパートのすぐ近くにチェーンのラーメン屋「幸楽苑」がありましたね。そこでたまに「野菜タンメン」と「焼き餃子」を食べたものです。

f:id:misaki-taku:20200607163621j:plain

 

客船 その2

f:id:misaki-taku:20200607000250j:plain

何日か前のこのブログ(5/18)の記事に80~90年代に撮ったと思われる横浜大さん橋に横づけされている大型客船の写真を載せて、そこに、なんで船の全体を写してないのだろう、と書いたのだが、スライドを接写していくうちに、船の全体を写したコマが見つかった。私は望遠ズームは持っているもののそれ以外、広角~中望遠はこの頃もいまも単焦点を何本か揃えて使っている。24mmと28mmと35mmと40mmと50mmと。小刻みに持っている。この写真を撮っていたころはAF化前のシステムだったからほかに85mmも100mmも200mmも300mmもぜんぶ単焦点で持っていた。なのでこの船に出くわしたときもたぶん35mmと200mmとか焦点距離の離れた二本しか持っておらず、この構図か数日前の構図かの二択だったのだろう。と言うようなことが推測された。まだいまの横浜大さん橋になる前の桟橋なのかな。とか、いろいろと古い写真を見て、街の変化や自分のことを検証してしまうが、鼻歌みたいなものですね。