花火大会

 神奈川県平塚市の花火大会は、相模川河口で打ち上げられ、打ち上げ場所付近は最近の花火大会がそうであるように、有料席も設けられていますが、川を挟んだ対岸の茅ケ崎市側の河口の砂洲や護岸の上の歩行者/自転車用の道路から見物するのは、これは「穴場」ってことですかね?混んでないし、遮るものもないし、花火も近くで見ることが出来ます。そうですね・・・屋台なんかはないですが。近くには道の駅茅ケ崎もあるから、そこでビールやらちょっとした食べ物を買ってくることは出来るでしょう。開いた花火を撮るのではなく、花火を見物に来ている人たちを撮るのは、もうこのブログを遡れば、何回も何回も、そうして撮ってきた写真をアップしてきました。この写真には開いた緑っぽい色の花火が露出オーバー気味に写っていますが、花火があってもなくても、撮っているわたしとしてはどっちでもいいのです。この広い砂洲にこれくらいの人口密度で人々が集まってきて、波の音、花火の破裂音、この写真を撮った場所の後には草むらがあり、もう秋の虫たちがたくさん鳴いている、視覚だけではなく、肌に感じる湿度や温度とともに海からの風のそよぎも含めて、ぜんぶが晩夏の花火大会という、それも典型ってことなのかな、夏の行事の典型を構成して、そこに含まれている自分がいることが、嬉しいとか楽しいとかではなく、季節と一緒にいることが、当たり前で、それを感じている、あるいは「こなしている」ような気持ちになって、こんな写真を撮っています。ここに写っている、少しでも花火を大きく観たいという気持ちからかな、波打ち際の方へと歩いていく人たち、波打ち際ぎりぎりで座っている人たち。いまはもう私はここ(この写真を撮った護岸の上の場所)に立っているだけで、そっちまでさらに行こうとは考えなかったけれど、もしかすると、今よりずっとずっと若き日々には、仲間と一緒になって歩いて行ったかもしれません。

 何年か前には花火が始まる少し前、まだ暮れ残っている高い空を、沖に向かってゆうゆうと大きな鴎が飛んでいくのを見ました。これから夜になる時刻に沖に向かう鴎は、どういう夜を過ごすのだろうか?そういうことを考えるときに、どうしても擬人化して考えてしまうから、なにか神々しいような崇高な感じを覚えたものです。今日は、同じ暮れ残る空にたくさんのコウモリが飛んでいました。きっと餌になる小さな虫が飛んでいたのでしょう。わたしには聞こえない超音波を出しながら飛んでいるわけですね。コウモリには崇高さは感じないけれど、精緻であり、目的に向けてミスなく行動している達人のようでした。

なにを書こうかな

 関東地方には何店舗もあり、あとは、札幌と仙台と大阪に広島、博多にも店舗があるようですね、文具などを扱うSmithと言う店があります。ロルバーンのノートが豊富で、2年ほど前だったかな嶋田里英と言うイラストレーターの方が描いた都市の風景画を表紙にしたA5くらいのリングノートを、特に何に使おうと決めることもなく、単純に欲しい!と言う思いに駆られて買ったことがありました。言い訳ですが、長く生きていると、たとえば五年から十年に一度くらい、なにに使うかはさておき、欲しい!に駆られて買ったノートが溜まりました。五冊くらいはあると思う。そして、ふた月か、み月前に、今度はB5かな、同じロルバーンのきれいな青を表紙にしたノートを、また買ってしまいました。すなわち使ってないノートは六冊くらいになりました。こんなふうにブログをスマホやパソコンで書いていて、そのうえノートに手書きでなにを書こうか?

 昨年の夏に紀尾井聖堂で開催されていた建築家内藤廣さんの展覧会で、アイデアや思索が書かれたノートをたくさん観ました。今年の夏は杉本博司さんのアイデアメモが、国立近代美術館の企画展に平行して、常設展の特集コーナーのようなところに置かれていました。

 ブログが現れる前には1998年から十年くらい、最初はノートに万年筆で、後半はパソコンで書いてフロッピーに保存して、日記を書いていました。ブログは公開前提なので、その前に書いていた日記とは書くことや書けることが違うけれど、それでもブログを書くようになってから、日記はやめにしました。

 そんな変遷のなかで、当然のごとくノートに筆記用具を使って何かを書くことは減っていき、ほぼなくなりました。会社の会議でメモを取るなんて言うことも、最近はWeb会議でやりとりが自動的に文字起こしされるようです。滅多なことは言えなくなりました。会議の生き生きした現場感すら杓子定規になってくかも……話が脱線しました。

 だけどノートは増えていく。この六冊のノートをなにに使おうか?と、考えたときに、相変わらず何を書くかは未定なのに、今度は何で書くか?に興味が移ります。上記の、日記をノートに手書きで書いていたときには、パイロットのカスタム74万年筆の太字に黒インクを入れて書いていました。1990年代当時は1万円か、そこから少し値引きされて買えた万年筆だったと思います。もっとさかのぼると、わたしは高校時代にも授業をノートに取るときに、万年筆を使ってました。もしかすると二本使いで、黒と赤だったかも。覚えてないけど。そこで部屋の中を探し回ったのですが、かならずどこかにはあるはず、捨ててはいないと思う、そのカスタム74万年筆が見つかりません。しかも現行品の価格は3万円くらいもするのですね。昔より生産数量も減ってしまい、物価上昇以上に、さらに原価が上がったのでしょうか?

 そういう経緯で、とにかく1本、万年筆を手に入れよう。そうすれば、何を書くかも決まり、新しい素敵な気持ちになるのではないか!なんて夢想と言うか妄想が始まります。わたしにはありがち。皆さんは?

 と言うわけで新古品未使用元箱なしの万年筆をアマゾンで一本、買ってしまいました。これはコクーンと言う商品名の万年筆で定価は4000円くらいだったでしょうか。4割引きくらいでした。

 昨日、インクを入れました。ちょうど在宅勤務で会議を聴講していたので、手元にあった紙に、誰かの発言を聞き取り、万年筆で文字にしてみました。おぉ、いいですね。自分が漢字をたいして忘れてないこともわかりました。

 さて、ではノートにはなにを書こうかな?決まってないのに楽しみですね。

 

ふらふら歩く

 Wet Land。調べてみると、鎌倉の海に面したサーフショップのようです。

 このブログの8/14や8/15に書いたように、メルカリで買ったCONTAX159というカメラが激しく光線漏れをしていたので、本当にモルト(遮光スポンジ)貼り換えだけで治るのかな?と半信半疑でしたが、とにもかくにも貼り換えをしたので、フイルム一本撮ってみました。この写真もそのうちの一枚です。結果、光線漏れの発生はゼロになりました。モルトにこんなに効果があるのか・・・というか、こんなにモルトに頼っている設計でいいのか?と思いましたが。・・・はい、治って良かったです。

 この写真を撮るまえ、江ノ電の極楽寺駅で降りて、近くの蕎麦店でランチセット(野菜天丼+もり蕎麦)を頼み、それからカウンターの上の壁に掲げてある日本酒メニューを見上げながら逡巡し・・・というのも、前夜に会社の飲み会の二次会で「雪の茅舎」(←日本酒の名前)をちびちび飲んだばかりでした・・・結果、誘惑に負けて「大雪渓」(←日本酒の名前)を頼んでいました。言い訳としては隣の一人客のお兄さんが、ビールを飲んでいたから、ビールじゃないけど日本酒を飲みたくなった、と言うのはどう考えても言い訳のようだけど、でも確かにあそこでビールを飲んでいる人がいなかったら、飲んでなかったんじゃないかな。いや、まじ、そう思うのですよ。そのあとほろ酔いで、極楽寺で百日紅の花を見てから、海街diaryの映画でよく出てきたカーヴしながらの坂道を下り、坂の下(これは地名の「坂の下」)で右折して海を見ました。写真を二枚、パドルサーフィンの人が小さな波を越えているところと日傘をさした女性がふたり海を見ているところの二枚を撮ってから、海から街へ戻ろうと振り返る。そこにこのサーフショップがありました。Wet Landってなんだろう?中には濡れているひとばかりがいるんだろうか?ふらふら、ふらふら。暑いなぁ・・・

 死にかけたアブラゼミが足元でばたばたしている。拓郎の「せんこう花火」の歌詞では ♪死にかけたトンボが一匹 石ころにつまづきました なんでもないのに 泣きました♪(作詞古沢信子) とあったな。あれは自分のことを死にかけたトンボのようだとたとえた歌詞だと思っていたけれど、晩夏の街を歩いていて、この蝉と同じように、死ぬ間際のトンボが道路で最後の力で羽根を動かしているという場面を見たと言っているだけなのかもしれないぞ。そういう場面を見たのも事実、そこに自分を投影したのも事実、そういうことかしら。ふらふら、ふらふら。暑いなぁ・・・。

 若い百日紅の花は勢いがある。ショッキングピンク色で、それこそせんこう花火のように四方八方に枝を伸ばしたその先に花をつけている。百日紅ってさるすべりで、その由来は、幹や枝の表面がすべすべだから、猿さえ上ることが出来ないから、そう聞かされていたけど本当かな。それなら、百日紅じゃなくて猿滑って漢字のはずじゃないのか?ふらふら、ふらふら・・・

 誰かの家の赤い郵便ポストにダイレクトメールがたくさん突っ込まれている。家電(いえでん)に私的な電話が掛かってきた、その最後は一体いつだったのだろう?同じように誰かから封筒に入れられた私信の手紙が届くこともなくなった。小学校の授業で、どこか海外の国にある姉妹校?に手紙を書くような授業、そんなのがまだ残っていたとして、小学生たちがプライベートで、手書きで便箋に手紙を書き、それを封筒に入れて、郵便ポストに投函する、ということを一回も経験してない子がほとんどなんじゃないだろうか?だから、こんな姉妹校に手紙を書くなんて授業が仮に残っていたら、それはもう非日常の行為になるんだろうな。でもって最後に私信を書いたのは一体いつだったのだろうか?メールやラインじゃなくて、紙に書いた文章を封筒に入れて送ったのは。そのときはきっとこれが便箋に手紙を書く最後だとは思わなかったんだろうな。だけどもうこの先、しないかもしれない。手紙が来ると、封筒から切手の貼ってあるあたりをすこし広く切り取って、それを水を入れたコップに入れておく。数時間すると、あるいは夜にコップに入れ、朝になると、切り取った封筒の紙から切手が離れてコップのなかに沈んでいる。それをそっと指で取り出して、今度は廊下のガラス戸に貼り付ける。やがて切手が乾くと、切手ははらりと落ちたり、あるいはガラスにくっついたままなら、爪の先で端っこを引っかけてガラスからはがす。消印の押された使用済の切手だったけれど、そうやってだんだん増えていった切手を大事に持っていたな。ふらふら、ふらふら・・・。

 小学生の頃に学校で学研の「科学」「学習」をまとめて申し込むことが出来たと思う。「科学」の付録に、紙を漉いて作る簡単な実験キットが付いていたことがあった。それでA5サイズくらいのすこし分厚く、表面がでこぼこした紙がたしかに出来たものだ。あの紙にはなにも書かなかった。なにかを書こう、いつか大事なことを書こうとは思っていたが、大事のレベルがわからないから、いまこそ書くべきって決断が出来なかったんじゃないか?いつだってそういうところがあったよな。エビフライが大好きだったこと、エビフライを最後まで残して、最後の最後に食べるために取っておいて、たぶんもうすっかり冷えて、しなっとしたエビフライ。あれ、これが、今でもカツ煮とか煮天ぷらが好きな、その原初にあるのだろうか。ふらふら、ふらふら・・・

 夏の午後のほろ酔い散歩。

もう一度、ピンホールで

 一つ前のこのブログに、自作したピンホールをフルサイズミラーレスカメラに装着して、江の島に写真を撮りに行ったことを書きました。そのきっかけとなったのが、むかし読んだ辻原登の短編小説を思い出したことにあった、ということも。だけど一つ前のブログに書いた日の撮影は曇り空の日で、カンカン照りの日の江の島を撮りたいと思っていたので、19日の真昼間に再度ピンホールで江の島を撮りに行ってきました。

 これは稚児が淵と呼ばれる岩場です。いちばん上がピンホールで撮って出し、だいぶぼんやりと眠い画像なので、すこしだけコントラストを変えたのが下の写真ですが、並べてみると、いちばん上の眠い写真の方が「白日夢」っぽいように思いました。へたに触らない方がいいのかもしれません。

 一番上のなにも画像処理をしていない(とはいえ、RAWでもなく、JPEGなので、カメラの標準的なデジタル画像処理は掛かっているのでしょう)撮って出しの写真は、ハイビジョンになるまえのSD時代のテレビ画面のようです。えっ?さすがにここまで低解像ではなかったでしょう!と思うけれど、いやいや、テレビは動いているから、その動きが解像度を補っていたはずで、静止画にすると、こんなもんだったかもな・・・とも思いました。

 人が、静止画や動画を見て感じることの不思議のひとつは、低解像度の眠い画像を「劣ったもの」「程度の悪いもの」としてダメです、と思うことばかりではない、ということですね。もちろん高画質で透明感があるリアルな写真が必要とされることが圧倒的に多いのですが、この写真をこれはこれで夢みたいでいいじゃない、と思うことがあるわけで・・・まぁ自分の撮った写真に対してそう言うのも横柄かもしれないけど、たぶんそういうもんだろうと推定してますが・・・それは不思議なことですね。ベスト判コダックカメラに使われていた単玉レンズを「べス単」と称して、柔らかいぼんやりとした写真を撮る、そういう愛好家団体などがありました、いまでもあるのかな?そういう写真を、というか写真も、良しとする感覚を持つ人が、それなりにいるっていうことですね。

 そして、写真でも動画でも、そのスタート時点は、そういうところから始まっているのも面白いと感じます。写真はモノクロという決定的にリアルと違うところから始まっている。スタートからリアルじゃないんですね。テレビも上記の通りSD画質から始まっている。スタートが低画質です。そこからだんだんだんだんリアルに近づいてきた。それはそれとして、ここでまた不思議なのは、そのような「昔の」(←乱暴な言い方)画質の「悪さ」の中身が、なんでこうも「記憶のかなたのよう」「思いでのよう」「白日夢のよう」と言われるような、人の心に残っている過去の映像記憶に寄り添っているのか?というところだと私は感じます。不思議・・・

 見たものを高解像なリアルな画像情報として記憶できる人もいらっしゃるようですね。画家の山下清さんはそうだったと聞いたことがあります。そういう方がいるのであれば、一方で、ごく一般的な人の視覚情報(画像情報)の記憶っていうのは、どうなっていて、それを画素数なり解像度なりで表せられるものなのだろうか?

 自分のなかにある昔のある場面の視覚情報記憶って、ちょっとそういう論じ方で測るものじゃない気がしますね。こっちに壁があって、真ん中に道があって・・・というような名前のついたものの配置や、もしかすると色の記憶があるのかもしれませんが、どちらかというと自分が動いているその場の状況を第三者的にたとえば俯瞰している位置から眺めているような光景が記憶されている。すなわち、見たものの映像記憶の正確性の問題じゃなくて、その場にいたときの五感が感じていたことを総動員して、制作された架空の、架空なのに現場にいなければ生まれなかったリアルな、架空画像のようなものが記憶されているんじゃないだろうか、などと思いました。こんなのは、それを専門に研究している方がいらっしゃると思われ、ここに書いたような適当な印象からの類推は、まったくもって素人の頓珍漢な発言に過ぎないのかもしれませんが・・・

 そしてリアルな架空画像は、高画質でも高解像でもない、本当は映像の記憶でもないのに、シナプスが連動したときに、映像にしてみるとこんな感じでしょ、という偽のそれっぽいものが、そのときだけ生産されているのかな・・・。その生産された不安定な映像のような偽視覚記憶が、このピンホール写真のようなものに実は似ているんじゃないだろうか?などなどつらつら考えました。

 ところでこの写真を撮った江の島の稚児が淵は、陸(藤沢市片瀬)と江の島(藤沢市江の島)をつなぐ橋を渡って江の島に渡ったところから、さらに島のほぼ反対側にある岩場です。江の島は島の外周は切り立った崖であるところが多く、よって、稚児が淵に行くためには、いちど島のてっぺんまで上って行き、そこから向こう側へ下りていくことになります。正確にはすこしショートカットできる道があるし、渡船もありますが。この日は風が強くなり、帰りは渡船を使おうかと思いましたが、もう欠航してしまいました。結局、山越えで往復。とくに稚児が淵からの帰路はいきなり200段以上の急な階段を上ることになります。真夏のカンカン照りの日です。私は60代も後半の年齢です。疲れましたが、往復ちゃんと歩けたことが、よかったです。

 

江の島

 本日で会社の夏季休暇は終わりです。写真関連で、三つやりたいことがありました。ひとつは光線漏れをモルト貼り換えで修理したCONTAX159のテスト撮影、ふたつ目がピンホールによる江の島撮影、もうひとつが修理完了した1959年発売のワルツブランドのカメラでの撮影、です。欲張って三つとも、今日一日でやれないか?とも考えたのですが、まぁ趣味の話だし、無理する必要もないことです。そこで、今日は二つ目のピンホールによる江の島撮影をしてきました。

 辻原登著の短編集「マノンの肉体」に収録されている「片瀬江ノ島」という短編では、昭和22年に江の島島内に住んでいたという女性が、平成5年頃に、主人公の「私」に、江の島に住んでいた頃に(すなわち昭和20年代前半)は島内に映画館があったと語ります。「私」は本当に映画館があったのかどうかを、実際に江の島まで行き、調査をするのですが、そのうちに白日夢だったのか、本当に映画館に迷い込み、そこで小津安の「浮草」を観るのでした。そして映画の途中で帰路に付きます。逃げるように。カンカン照りのなか、やっと「現世」?に戻ってきます。

 時空を超えて夢のような街に迷い込む物語としては朔太郎の「猫町」はじめ、たくさん書かれているのでしょう。私が知らない物語がもっともっとたくさんあるわけです。だから、たまたま読んだことがあった、というだけなのですが、この「片瀬江ノ島」は好きな小説です。最近は辻原登の本をあまり見かけなくなりました。もう30年前になるでしょうか、よく読みました。

 あることがきっかけで、この小説に流れる「白日夢」のような江の島を撮ってみたくなり、そこで、ピンホールを自作したという経緯もあるのです。

 しかし今日は曇り空でした。カンカン照りの日ではありませんでした。だから気持ちとしては「仮の撮影」、とりあえず行ってみた、ということです。上の写真は、小田急電鉄の片瀬江ノ島駅舎内に置かれているくらげの水槽に映っているホームです。

 昼飯には島内の観光のためのメインの参道からは外れている、小説で映画館に行くための道筋として、最初に左折する通りの先にある店で食べました。映画館はさらに途中の小路を右折することになっています。昼食に食べたのは一日十食限定と書かれた海鮮ちらし丼(1000円)に、どうしても食べたくなり、鰺フライをひとつ(450円)付けました。店の中には、江の島の古写真が何枚も飾られていましたが、そこに映画館が写っているのか?などを細かく見極めることはできませんでした。天気予報を見ると、相変わらず不安定な気圧配置になっているのか、太陽マークひとつの快晴の日は当分先まで来ないようですが、カンカン照りの日に、またピンホールで撮りに行きたいですね。でもきっと妄想しているような写真が実際に撮ることができることは滅多にないでしょう。

 江の島は近いので行き慣れた観光地です。だけど、このように、新たな目的というのか妄想を持って行くと、見える場所?というか見る場所?も新たになるので、初めて来た旅のような楽しみが生まれます。島内の奥のヨットハーバーまで行き、そこでピンホールをはずし、オールドレンズに替えて、帰路も写真を撮りながら歩きましたが、いつものレンズになると、もう、いつもの江の島に戻っているのでした。

平和の祈り

 終戦記念日。私の父は1927年生まれ、母は1932年生まれ、終戦の日に12月生まれの父は17歳、7月生まれの母は13歳だったわけです。父や母が終戦の玉音放送なるものをどこで聞いたのか?リアルタイムで聞いたのか?あるいは戦争が終わったことをいつどのように知ったのか、生前にちゃんと聞いておけばよかったと思います。そしてもう聞けません。かすかに、母は近くの学校の校庭に集まって聞いたと言っていたような気もします。いま、この放送の全文をネット検索して読んでみましたが、よくテレビで取り上げられる「耐えがたきを耐え」云々のところは、後半のごくごく一部で、全体は思っていたよりずいぶん長いものでした。そんなことも知らなかったのか!と自分ながら情けない気になります。それから、調べたサイトにも「現代文訳」が併記されていましたが、当時、ラジオの前でその放送を聞いた人たちが、その聞き取りずらい「玉音」の意味をリアルタイムで理解できたのでしょうか?

 母は前橋に疎開していたようです。東京大空襲の日には前橋から、東京の空が真っ赤になるのが見えたと言っていました。防空壕に逃げたこともあったそうです。父は、陸軍の学校にいて、起床から朝礼整列までのあいだにやらなければならないことを、こなしていく順序を、同室の仲間と一緒になってセオリー(例えば最初に着替えてから歯を磨き、洗顔する)から組み替える(たとえば着替える前、洗面所が空いているうちに歯を磨いてしまう)ことで、混雑を避けて、首尾よく整列に間に合えたこと。ラッパのメロディとその指示の意味の関連。そんなことを話してくれたり、教えてくれたりしましたが、敗戦からの日々については、聞いたことがありませんでした。たぶん、あんまり話したくなかったのでしょう。来襲してきた米軍のグラマン戦闘機に一発だけ銃を撃ったことがあるとも言っていましたが、前線に送られることはギリギリなかったようです。

 すなわち、ちょっとした逸話をごくたまに話すだけで、戦争について多くを語りはしなかった。私のように、今になり、すなわち父も母も亡くし、もっといろいろと聞いておけばよかったと、後悔の思いを持っている人も多いのでしょう。先日、NHKテレビで手塚治虫が戦時中の自分の体験を描いた作品「紙の砦」のドラマ化放送を見ましたが、たぶんCGやAIが作った、焼夷弾が雨のように降ってくるのを見上げる場面の動画映像は、そうだったという話をいくら聞いたり読んだりしても想像出来なかったような凄まじさを映像が一瞬で伝えてくれました。それなりに史実に基づいて、すなわち一機のB29から何発の焼夷弾が落とされ、編隊の機数からして、こう見えただろうという確からしい推定で作られた映像なのだと思います。あの下を生き延びた人、亡くなった人、もうただの運のみで、逃げ惑うことすら意味もなく、あの場面だけでも、(聞いたり読んだりではそこまで戦慄出来なかった)戦争の恐怖を実感できました。映像はすごいですね。

 このように、わたしはせっかく父と母にその体験を聞くチャンスがあったにも関わらず、それが出来なかった。それでも、いま、小さな子供たちの将来に、たとえば徴兵制が復活していたり、殺人ドローンが敵国の一般市民を数百万人レベルで個人認証できて、いつでもひとりの個人を殺傷できる能力を纏ったり、そういう殺伐とした世界にならないように祈りたい。あるいは地球温暖化で人の居住スペースが減少し、土地や食料の奪い合いにより、それが大きな戦争につながることがないように。科学の発展が表面上の便利を提供することで支持を取り付けてきた歴史の結果、便利のしっぺ返しが人類そのものの衰退や滅亡を予兆させる方向へ向かってしまうことにならないように。

 上の写真は前回のブログで書いた光線漏れを起こしてしまうカメラで撮ってあった写真です、オレンジの部分が光線漏れです。全体として少し黒が浮いている感じとか、フイルムらしい写真になっています。終戦記念日の土曜日の午前、この光線漏れするカメラの遮光用モルトの貼り換えをずっとやっていました。午後には墓参りに行き、夜はJリーグの試合をダゾンで観戦しました。

 

 

メルカリで買ったCONTAX159がそのままだとダメだった

 以下、全編カメラオタクの話ですので、ご興味ないかたはスルーした方が無難です。

 7月、会社の同僚から、小型のフイルム一眼レフカメラの機種選定の相談を受けてから、ミイラ取りがミイラになるって言うんでしたっけ?同僚はすぐにその願望を制御して収めた、すなわち購入せずに済んだ、にもかかわらず、私は結構な投資をしてしまいました。以前もこのブログに書いたように、京セラヤシカがCONTAXブランドで1970-80年代に出していたカメラ、CONTAX139と159を、レンズも2本、50mmF1.4と45mmパンケーキを、ヤフオクまたはメルカリで購入しました。まぁ、高価なのはレンズで、カメラはそんなでもないっちゃないのか、139が3000円、159が15000円でしたね。139は外観の皮がぼろぼろだったので、貼り換えました。そののち、7月~8月でそれぞれのカメラでフイルムを2本づつ撮ってみました。フイルムは1本1500円、現像およびデータ化が1本1200円くらいなのですよ。4本となると4×(1500+1200)となるので、このお遊びで機材代と別に10000円くらいは掛かっているんですね。あらためて計算してみて、ちょっと青くなりました。しかも、安価だった139の方はとくに問題なく、ちゃんと写真がきれいに撮れましたが、それより高価だった159の方が、ひどい光線漏れ、別の言い方だと光線引き、を起こしていました。この159、落札するときの機械の状態の出品者の記載によると、ほぼ問題なく稼働すると書いてあったと思いますが、ISO感度は1から1.5段分高めの数字に設定しないと適正露出にならないわ、MMレンズを装着してもプログラムオートに切り替わらず、たまに表示がプログラムになっても絞りは最小絞りのままシャッターが切れてしまうわ、上記の通り光線漏れはひどいわ、ちょっと出品者の記載には疑義あり、の物でした。上の写真は画面左よりに縦に白い光線漏れ、中央やや右に、左よりは細い光線漏れ、右側に画面中心から下半分に白い光線漏れがありまして、フォトショで少し補正したのちにここにアップしていますが、完全には補正できません。そして、このコマは光線漏れの程度が、まだましな方、であり、もう画面約1/3くらいが真っ白になっている写真もありました。もちろんこんなのは劣化しているモルト(光線漏れ防止用の隙間に貼る黒いスポンジのような部材)を貼り換えれば治ると想定されるので、それをしなかった私が悪いわけですが、それでもモルトは一応は残存しているので、本当にモルトの劣化だけが原因なのか、心配になりました。以前別のカメラではビスが一本抜けていて、そこから光が漏れていたのですが、そのときと同レベルのひどい光線漏れです。今回はビスの欠品箇所なんかないし、シャッターは縦走りなので、こういう縦線の尾引きとなると、やはり裏蓋と本体のモルトが原因と思われますが。ほかに原因があるとすると、今のところは見付けられていない。

 しかも、これは気のせいで、そういうふうに思ってしまいがち、というだけの話かもしれないのですが、光線漏れをしているコマの写真が、なんかいい感じの写真が多い気がして、それもがっかり感を増すわけですよ。光線漏れがいい、と言う意味ではなく、光線漏れさえ無ければいい感じなのに、光線漏れのせいで台無しで残念……と言う意味です。

 モルトを貼り換えて、また試写すると2700円かかるわけで、それでまだ治っていなかったら、けっこうショックだよなあ。

 だけど、そうやっていろいろやってるうちに症状が治ると、こんどは愛着がひとしおになったりします。それも経験済。