平和の祈り

 終戦記念日。私の父は1927年生まれ、母は1932年生まれ、終戦の日に12月生まれの父は17歳、7月生まれの母は13歳だったわけです。父や母が終戦の玉音放送なるものをどこで聞いたのか?リアルタイムで聞いたのか?あるいは戦争が終わったことをいつどのように知ったのか、生前にちゃんと聞いておけばよかったと思います。そしてもう聞けません。かすかに、母は近くの学校の校庭に集まって聞いたと言っていたような気もします。いま、この放送の全文をネット検索して読んでみましたが、よくテレビで取り上げられる「耐えがたきを耐え」云々のところは、後半のごくごく一部で、全体は思っていたよりずいぶん長いものでした。そんなことも知らなかったのか!と自分ながら情けない気になります。それから、調べたサイトにも「現代文訳」が併記されていましたが、当時、ラジオの前でその放送を聞いた人たちが、その聞き取りずらい「玉音」の意味をリアルタイムで理解できたのでしょうか?

 母は前橋に疎開していたようです。東京大空襲の日には前橋から、東京の空が真っ赤になるのが見えたと言っていました。防空壕に逃げたこともあったそうです。父は、陸軍の学校にいて、起床から朝礼整列までのあいだにやらなければならないことを、こなしていく順序を、同室の仲間と一緒になってセオリー(例えば最初に着替えてから歯を磨き、洗顔する)から組み替える(たとえば着替える前、洗面所が空いているうちに歯を磨いてしまう)ことで、混雑を避けて、首尾よく整列に間に合えたこと。ラッパのメロディとその指示の意味の関連。そんなことを話してくれたり、教えてくれたりしましたが、敗戦からの日々については、聞いたことがありませんでした。たぶん、あんまり話したくなかったのでしょう。来襲してきた米軍のグラマン戦闘機に一発だけ銃を撃ったことがあるとも言っていましたが、前線に送られることはギリギリなかったようです。

 すなわち、ちょっとした逸話をごくたまに話すだけで、戦争について多くを語りはしなかった。私のように、今になり、すなわち父も母も亡くし、もっといろいろと聞いておけばよかったと、後悔の思いを持っている人も多いのでしょう。先日、NHKテレビで手塚治虫が戦時中の自分の体験を描いた作品「紙の砦」のドラマ化放送を見ましたが、たぶんCGやAIが作った、焼夷弾が雨のように降ってくるのを見上げる場面の動画映像は、そうだったという話をいくら聞いたり読んだりしても想像出来なかったような凄まじさを映像が一瞬で伝えてくれました。それなりに史実に基づいて、すなわち一機のB29から何発の焼夷弾が落とされ、編隊の機数からして、こう見えただろうという確からしい推定で作られた映像なのだと思います。あの下を生き延びた人、亡くなった人、もうただの運のみで、逃げ惑うことすら意味もなく、あの場面だけでも、(聞いたり読んだりではそこまで戦慄出来なかった)戦争の恐怖を実感できました。映像はすごいですね。

 このように、わたしはせっかく父と母にその体験を聞くチャンスがあったにも関わらず、それが出来なかった。それでも、いま、小さな子供たちの将来に、たとえば徴兵制が復活していたり、殺人ドローンが敵国の一般市民を数百万人レベルで個人認証できて、いつでもひとりの個人を殺傷できる能力を纏ったり、そういう殺伐とした世界にならないように祈りたい。あるいは地球温暖化で人の居住スペースが減少し、土地や食料の奪い合いにより、それが大きな戦争につながることがないように。科学の発展が表面上の便利を提供することで支持を取り付けてきた歴史の結果、便利のしっぺ返しが人類そのものの衰退や滅亡を予兆させる方向へ向かってしまうことにならないように。

 上の写真は前回のブログで書いた光線漏れを起こしてしまうカメラで撮ってあった写真です、オレンジの部分が光線漏れです。全体として少し黒が浮いている感じとか、フイルムらしい写真になっています。終戦記念日の土曜日の午前、この光線漏れするカメラの遮光用モルトの貼り換えをずっとやっていました。午後には墓参りに行き、夜はJリーグの試合をダゾンで観戦しました。

 

 

メルカリで買ったCONTAX159がそのままだとダメだった

 以下、全編カメラオタクの話ですので、ご興味ないかたはスルーした方が無難です。

 7月、会社の同僚から、小型のフイルム一眼レフカメラの機種選定の相談を受けてから、ミイラ取りがミイラになるって言うんでしたっけ?同僚はすぐにその願望を制御して収めた、すなわち購入せずに済んだ、にもかかわらず、私は結構な投資をしてしまいました。以前もこのブログに書いたように、京セラヤシカがCONTAXブランドで1970-80年代に出していたカメラ、CONTAX139と159を、レンズも2本、50mmF1.4と45mmパンケーキを、ヤフオクまたはメルカリで購入しました。まぁ、高価なのはレンズで、カメラはそんなでもないっちゃないのか、139が3000円、159が15000円でしたね。139は外観の皮がぼろぼろだったので、貼り換えました。そののち、7月~8月でそれぞれのカメラでフイルムを2本づつ撮ってみました。フイルムは1本1500円、現像およびデータ化が1本1200円くらいなのですよ。4本となると4×(1500+1200)となるので、このお遊びで機材代と別に10000円くらいは掛かっているんですね。あらためて計算してみて、ちょっと青くなりました。しかも、安価だった139の方はとくに問題なく、ちゃんと写真がきれいに撮れましたが、それより高価だった159の方が、ひどい光線漏れ、別の言い方だと光線引き、を起こしていました。この159、落札するときの機械の状態の出品者の記載によると、ほぼ問題なく稼働すると書いてあったと思いますが、ISO感度は1から1.5段分高めの数字に設定しないと適正露出にならないわ、MMレンズを装着してもプログラムオートに切り替わらず、たまに表示がプログラムになっても絞りは最小絞りのままシャッターが切れてしまうわ、上記の通り光線漏れはひどいわ、ちょっと出品者の記載には疑義あり、の物でした。上の写真は画面左よりに縦に白い光線漏れ、中央やや右に、左よりは細い光線漏れ、右側に画面中心から下半分に白い光線漏れがありまして、フォトショで少し補正したのちにここにアップしていますが、完全には補正できません。そして、このコマは光線漏れの程度が、まだましな方、であり、もう画面約1/3くらいが真っ白になっている写真もありました。もちろんこんなのは劣化しているモルト(光線漏れ防止用の隙間に貼る黒いスポンジのような部材)を貼り換えれば治ると想定されるので、それをしなかった私が悪いわけですが、それでもモルトは一応は残存しているので、本当にモルトの劣化だけが原因なのか、心配になりました。以前別のカメラではビスが一本抜けていて、そこから光が漏れていたのですが、そのときと同レベルのひどい光線漏れです。今回はビスの欠品箇所なんかないし、シャッターは縦走りなので、こういう縦線の尾引きとなると、やはり裏蓋と本体のモルトが原因と思われますが。ほかに原因があるとすると、今のところは見付けられていない。

 しかも、これは気のせいで、そういうふうに思ってしまいがち、というだけの話かもしれないのですが、光線漏れをしているコマの写真が、なんかいい感じの写真が多い気がして、それもがっかり感を増すわけですよ。光線漏れがいい、と言う意味ではなく、光線漏れさえ無ければいい感じなのに、光線漏れのせいで台無しで残念……と言う意味です。

 モルトを貼り換えて、また試写すると2700円かかるわけで、それでまだ治っていなかったら、けっこうショックだよなあ。

 だけど、そうやっていろいろやってるうちに症状が治ると、こんどは愛着がひとしおになったりします。それも経験済。

ピンホールで撮ってみる

 夏季連休五日目の12日です。昨晩から今朝にかけて台風が本州を東から西へ横断していきました。夜中は雨と風がそれなりに強かったのでしょうか?夜中に起きることもなかったので、どうだったのかはわかりません。茨城県に台風が上陸するのは観測史上はじめてだそう。そもそも日本に上陸した台風が、東から西へ台風が進むのも「常識外」な気がします。今日は曇り、さきほど、雨粒の密度が高い雨が通り過ぎていきました。

 以前から考えていたのですが、フルサイズのデジタルミラーレスカメラの高ISOノイズ耐性がここまで良くなると、ISO400フイルムだと三脚マストで、シャッター速度は快晴でも2秒は必要、という感じだったピンホールによる像の撮影(すなわちピンホールカメラです)が、手持ちでも撮影可能になっているはずです。仮にISO12800にすると、ISO400より5段分感度が上がっているので、2秒から5段分高速シャッターを選べるわけで、それは1/15秒になります。しっかりとホールドして撮ればぶれずにすむでしょう。そこでちょこっと作ってみました。15分くらいで出来ちゃっいました。EOSR6カメラにすでに持っているFDレンズ用のマウントアダプターを装着し、FDマウントカメラ(たとえばキヤノンAE-1やA-1やF-1やT-70などなど)のカメラボディキャップを取り付ける、そして、そのボディキャップにピンホールを開ければ出来上がる、そう考えました。ただ、ボディキャップは黒のプラスチックの射出成型で作られた部品で、肉厚は1mm以上ありそうです。そこに単純に0.2-0.3mm径のピンホールを開けても、肉厚があり過ぎて、光はそのトンネルの壁に乱反射しつつ進む、迷光になるだけで像を作ることはできないと思いました。ちなみにレンズはないので「像を結ぶ」とは言えないので「像を作る」と書きました。そこで下図の断面図ようにピンホール回りを作りました。0.2-0.3mm径のピンホール部はせいぜい0.2mm程度の厚さ範囲で、そこからカメラ側は円錐に広がります。もちろんこんなきれいにできるわけではないですけどね。

 使ったのは何十年も前にちょっとだけ木工家具作りにはまったときに買って持っていた木工用ドリルと、どこでも手に入る画鋲(透明プラの頭を持つ、いまの言い方だと、だるまピン、ですかね)です。ボディキャップの裏側から中心にドリルで穴を掘っていきます。穴は図のように斜面を持った、蟻地獄の穴のような「円錐」になって掘られます。ボディキャップの表側(図の被写体側)に指を当てておくと、穴が貫通してしまう直前に、プラスチックの表面が盛り上がってくるので、ドリルはそこまで。まだ貫通穴、ピンホール穴は開いていません。その盛り上がっている、モグラのトンネル上の「土の盛り上がり」みたいなところを、画鋲で探って刺しました。深く刺すとピンホール径が大きくなりすぎるので、そっと、です。というわけで断面は下図のようになりました。実際にはバリがあったり粉が落ちていたり、穴もきれいな真円にはならないのですが、それでも実写してみたら、上のような写真が写りました。よく見るピンホールカメラの写真そのものな感じです。すぐできました。いかにも夏休みの工作の宿題、自由研究みたいですね。

 このピンホール装着デジタルカメラで白日夢のような写真が写るでしょうか?真夏の快晴の日の、真昼間に。

 

サーファーを眺める

 8月8日の土曜日、会社の夏休みの初日、昨晩遅く珈琲を飲んだせいかなかなか眠れず、それなのに、ほんの4時間ほどだけ寝た早朝に起きてしまいました。一つ前のブログを書いてから、再度眠ろうと思いましたが、意外にも眠くならないので、ふと思い立ち、自転車に乗って、茅ケ崎海岸の海水浴場ではない、西浜~相模川河口あたりを回ってきました。フイルムを詰めてあった一眼レフカメラのフイルムを撮りきって、早く現像に出したかったことも理由の一つでした。早々にフイルムは撮り終えたので、そこからはコンデジに切り替えて写真を撮りながら、のんびりと自転車を漕いで行きました。日本列島のはるか南の方には台風15号と13号かな、があるようで、その台風が起こした風が起こしているのか、けっこう大きな波が打ち寄せていました。写真は相模川河口でサーフィンをしている人を撮りましたが、コンデジの4倍ズームを目いっぱい望遠にしています。フルサイズ換算で100mmくらいな感じ。この場所のサーファーはふたりしかいませんでしたね。大きな波が来ていることもあり、上級者向けだったのかな。

 この写真は相模川の茅ケ崎側から撮っています。相模川の向こう、西の方は平塚市です。わたしは2歳から18まで平塚に住んでいて、小学校・中学校・高等学校は平塚でした。今からもう55年くらい前でしょうか、私が通っていた駅近くの中学ではなく、その後に私と高校が一緒になる某君が通っていた海の近くの中学には、のちにプロサーファーになった同級生がいたそうです。

 ここからは某君に聞いた話か、それとも自分が妄想した話かわからなくなっていますが、そのプロサーファーになった、仮にSさんとしましょう、Sさんはいい風が吹いているか、いい波が来ているか、を常に把握していて、いい波が来ている日には、授業をさぼってでも波に乗りに行っていました。もしかすると中学の時点でSさんのサーフィンの腕前は知られていて、先生も彼が波に乗るために授業を休むことを黙認していたかもしれません。まぁ、そんなことはないとは思うけれど。後年、Sさんは日本を代表するプロサーファーになったようです。茅ヶ崎や平塚にはサーフショップがたくさんあります。ユーミンの「天気雨」の歌詞には茅ヶ崎のゴッデスと言う店の名前が出て来ます。

 想像するのは中学校の教室。校庭を挟んで、防砂林の松林が見え、そのさらに向こうに少しだけ海が見えます。Sさんは窓際の自席で英語の授業を受けていて、better thanの使い方を習っているとしましょう。例文を応用して、今日の波は昨日の波よりサーフィンに向いている、と言う英文を考えています。だけど南風が吹くと砂ぼこりが舞う校庭の向こうに、ちらりと見える海の様子は、さっきからとても気になっています。この授業のあとに、もう一教科、六時間目があるけれど、そこはさぼって波に乗りに行こうと思っている。そう思いながらも、同時にほかのことも考えていたのでしょう。髪の長い切れ長の目の彼女のこととか、昼休みにたくさん買ってきた菓子パンの最後の一つ、カレーパンをいまこの5時間目が終わったらオヤツとして食べてしまうかどうか、など。

 妄想はここまでにしておいて、海沿いの道をチャリに乗ってゆっくりと移動していたり、散歩しているときに、上手に波に乗ってくるサーファーを見掛けると、じゃぁ次にまたそのサーファーが波に乗ってくるところを、こんどはちゃんとテイクオフから見物しようと思います。だけど、さっきたまたま見掛けたときは偶然そのタイミングだったようで、いざ、ちゃんと見物しようと思ってもなかなかいい波って来ないんですね。オリンピックのサーフィンをテレビで見ていても規定の時間範囲のなかでせいぜいひとつかふたつしか、いい波が来ないときもありました。サーファーは海の真ん中にボードとともに浮かんでいて、パドリングで沖まで漕いで行き、波を待つべきところで待っています。乗るべきいい波が来るまで、そこで乗らない波をいくつかやり過ごしている。やり過ごしているときに、ボードに腹ばいになり、乗らないやり過ごす波に持ち上げられたり、また低い位置に戻ったりしている。そのあいだゴォゴォと波と風の音がしています。私はサーフィンはやったことがない、傍観者というか観客のようなものです。

 今日、この写真を撮ったときは、相模川の河口の海水面より十メートルくらいは高い護岸から海とサーファーを見ていました。オリンピックのテレビ画面越しにサーフィンを見ているときにも同様な感じはするのですが、こうしてリアルにその場所の少し高い位置から、まさに海原にひとり小さく浮かんで波を待っているサーファーを見ていると、テレビの画面で見ているときよりもずっと、なんかこう「ひしひしと」していて「いたいたしい」感じもします。自然のなかでドン・キホーテのような一人の挑戦者が、あがいている感じもする。いたいたしい、とか、あがいている、なんて書くと、ずいぶん貶しめていたり蔑んでいるように誤解されるかもしれないのですが、そうじゃなくて、自然のなかに人がひとりいることの、ぽつねんとした寂しさや弱さが見える気がして、見ているこちらも、はらはらするんです。はらはらする分、がんばれ!とも思います。自然にダイレクトにいどんでいるスポーツであるからか、ほかのスポーツとは違う、むき出しな感じ、丸腰で挑んでいる感じというのかな、そういうことを感じます。

 数分か十分も見ていると、やっと彼が乗ろうと決める、いい波がやって来ました。上手でした。何度か切り返しながら、長い距離をずっと乗って進み、最後はほぼ波打ち際まで帰ってきました。そう「帰ってきた」という感じもするんですね。

 そこまで見たら、また自転車を漕いで、帰ってきました。

リニューアル工事中

 何年か前の真夏、横浜の、関内駅から南西に伸びる大通り公園で撮った写真。きっと赤い靴が印象的に見えて、撮ったのだと思います。最近になり、写真を見直していて拾い出しました。

 この大通り公園、いつも空いていて、公園の方も、なんと言うか、この程度でいいですよね、と言う必要最低限な作りで、人を寄せるための仕掛けが少ないのです。たしか、子どものための遊具がまとまってたくさんあるところもなく、パラソルを備えたテーブルと椅子が何脚も並んだ両側にフードコート的に軽食や飲み物を出す店があることもなく、フットサルコートなんかも設けられず、ただ両側にメタセコイヤの並木があり、真ん中は、広場?空き地?そんな感じです。すなわち公園にしては殺風景で、だから、あまのじゃくなわたしは好きな公園でした。でした、と書いたのは、昨日、横浜某所で用事があり、終わったあとにすこし散歩をしたとき、ここに行ってみたら、リニューアル工事をしていて、白い工事現場を囲う壁に阻まれて入れなくなっていて、もしかすると、上に私が書いたような設備が出来て、人がもっとやって来る公園になってしまうのかもと思い、でした、と過去形で書いたわけです。夏の夕方に、ラジオまたはラジカセを持ってきたおじさんもしくはおじいさんが、メタセコイヤの下のベンチに座って、プロ野球中継を聞きながら、これも死語かな?「夕涼み」をしつつ、ぼんやりとしていたり、友だちと来ていれば、誰かの噂話をしてる。そんな光景を思い浮かべて、行ってみたのですが。ところで今もプロ野球のラジオ中継ってあるのかな?

 あるいは、少し気温も下がった夕方に、孫を連れて来た爺さんがビニールのボールでサッカーごっこをしたり、秋の文化祭に向けて張り切っているダンス部の生徒たちは、中学生くらいかな、顧問の先生の指導のもと地面に手をついて、足を回しながら空中に跳ね上げたり。でもとにかく公園の人口密度は低い。西の空が少しだけ焼けていてピンク色になってる。とは言え足を止めて見上げるほどの夕焼けでもなく。リニューアルして良くなったとか、前の方が良かったとか、いろいろ思うのは極私的でわがままな判断基準がそれぞれにあり、年配になればなるほど、前の方が良かったと思うのは、医学的?心理学的?に当然なんだろう。

 それでもどんなふうに新しくなるのか?楽しみ。

 と、ここまで書いて調べてみたらリニューアル工事内容が横浜市のホームページにありました。

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/oodoori_rp.files/0011_20251126.pdf?utm_source=openai

完成イメージイラストを見ると予想していたよりは、相変わらずの殺風景かもしれないな😆と、思いましたが、詳細を読むと、遊具の集まった広場とか、飲食空間の充実……なんだ、わたしが上に書いた、予想した、そのまんまやん。わかりやす。

 新しくなると風情が変わると思いますが、それはそれでいい場所になることを期待。

1946年、未来を見ている青年たち

 数日前のこのブログに

『私は懐かしさを感じるというのは、おセンチで甘ちゃんだと思っていたときもあり、もっと新しい何かに目を向け続けることが大事だと思ったりもしていましたが、最近は改心して?懐かしさを感じるというのは、過去が多い結果としてのその人だけのアイデンティティに基づく感情なのだから、これはいちばん強く、必ず起きる、重要な感情だ、と思うようになってきました。』

と書きました。

 今日、先日映画館で観た吉田拓郎のライブをU-NEXTで再度観ました。曲は「人生を語らず」になりました。その歌詞には♪今はまだまだ 人生を語らず 目の前にも まだ道はなし 越えるものはすべて 手探りの中で 見知らぬ旅人に 夢よ多かれ 越えて行けそこを 越えて行けそれを 今はまだ 人生を 人生を語らず♪ということが歌われています。私はこの曲をいくつのときに聴いたんだろうか。1974年発売だから発売されてすぐ、74年にに聴いたんだと思います。17歳だったのか。そして、たぶん、それ以来、この曲のこの歌詞から受けた影響のようなことが、それから50年以上もずっと心の奥に、実際にはそう行動できてこなかったにせよ、理想の行動規範のように記憶されているのかもしれないなと思いました。だから、上の『』内に書いたように、懐かしさなんていう感情は、いずれ過去を向いていて、すなわちおセンチで甘ちゃんだ、という思いがずっとあったのだと思いました。今も本当は「改心」し切れてはいないんだろうな。いや、これは言葉でこうして書くときの「方針」のようなことで、繰り返しますが、実際の行動がそう出来てきたわけではないかもしれない。というか、そんなふうにカッコよくは生きてない、実行できてない。だけど、こうして文章で説明しようとすると、こう書いてしまう。それが理想と思うからであり、その源は17歳のときにこの歌詞に出会ったことがあったかもしれないな。

 こんなことを書くと、そんなただの一曲の流行歌の歌詞の一部に、何十年も縛られるというのか、影響を受けたままでいることがあるのか?と思う人もいるでしょうね。自分でもわからないんですよ。毎日この曲の歌詞を思い出しているわけではない。どころか、何年もこの曲の歌詞を読んだり、この曲を聞かないままでした。それなのに、そういうことなのかな?と自分でも思うわけです。

 森山大道さんが15年くらい前のNHKの特集番組で、今見たものをどんどん記録していき、それは過去になっていくわけだけれど、だけど、そうやってとにかく記録を続けていると、もしかすると未来が見えるかもしれない、というようなことを言っていたな。懐かしさを大事に思うことと、拓郎の歌詞のように前を向いて新しいことを目指して生きることは、かならずしも相容れないことではなく、両立できるのかもしれない。

 

 写真は1946年か1947年のもの。わたしの父が終戦後に某大学に入り、仲間と海水浴に行ったときの写真と思われます。右から二番目が父です。もうこの世にはおりません。このとき19歳か20歳でした。父はこのころからアルバムをきれいに作っていました、自分の撮った写真や誰かの撮った写真、ときには売られていたポストカードなどを貼って、そこにグラフィックデザインのようにイラストや工夫したフォントによるタイトルを描き加え、アルバムのページが作られているところもあります。戦時中の様子も、そのときの日本国民の思想通り、英米に対する敵対心を露わにしたようなことが書き添えてあります。だけど、その同じアルバムに、終戦直後に、書き添えたデザインのなかに急に英語が登場したり、映画館でみたアメリカの?ミステリー映画のちらしから切り取ったと思われる記事や女優の顔のイラストも貼ってありました。

 このアルバムの、ある(戦争中の)ページから次の(終戦後の)ページに移るあいだに、急に民主化思想に切り替えることが起きているのです。それを実際に18歳くらいで経験した人の心になにが起きていたのかは、もうぜんぜん想像ができないことですが。でも天皇を神として崇拝する思想に17歳まで、今の言い方をあてはめてしまうと「洗脳」されたように生きてきて、ある日を境にそれは間違っている、今日からはこういう価値観を持たないとだめですよ、となりました。それでも終戦後に続く父のアルバムは、楽しそうで、仲間との青春を本当に謳歌していたように写っています。良かったなと、今を(あやういけれど?)平和に生きている私から見ると、軽はずみかもしれないが、そう思いました。

帰り道の歩行速度

 夏至からもうひと月と十日ほど過ぎました。梅雨明けとともに猛暑の日々になり、いよいよ真夏の日々が始まったと感じます。一方、もう朝が来るのは遅く、夜になるのは早くなってるわけで、そう考えると、夏は最初っから悲しさを纏っているような気もします。それをあらためて、明確に突きつけられるのが晩夏の頃だとすれば、せめてお盆休みまでは夏を目一杯楽しむのがいいのでしょう。でも暑すぎて……なかなか……難しくなりました。

 8月1日、夜、4月下旬に大阪で行われた吉田拓郎のライブ映像を映画館で観るライブビューイングに行ってきました。映画館で観たせいもあるのでしょうか、ツインリードギターと分厚い低音。ブルージーな編曲に、感動しました。えっ?80歳ですか?途中の語りは年齢相応のたどたどしく、かつ掠れたような声でしたが、いざ歌になると高音もシャウトも現役ばりばりの歌い手でした。2018年?のライブは横浜で生で観たのですが、そのときに比べると、いわゆるヒット曲や有名曲も多々ある選曲でした。いちばんかっこよかったのは、わたしは「英雄」って曲でした。アルバムでは聴いたこともあり、知ってる曲でしたが、この編曲で蘇った感じを受けたのです。

 コンサート終わり外に出ると雨上がり。なのに全然涼しくない。最寄り駅まで戻ると、今日は花火大会があったらしく、花火のあとに食事をしたり飲みに行ったりしたのであろう大勢の方が、22:00になっても駅周辺にいるのです。そしてタクシー待ちも長蛇の列になってます。土日ダイヤで、もう終バスも出てしまい、しかたがないので、家まで約25分歩きましたが、汗が流れる流れる。熱中症の危険すら感じたのでした。

 住宅街をたどる道。それなりに交通量もある片側一車線のバス通りですが、それでも女性には独り歩きはすこし怖いと思います。私が、私なりの早足で歩いていると、女性が抜いていきました。たぶん私の歩く速さを1とすると、女性の歩く速さは1.05くらい。だいたいは似た速度ですが、それでももちろん抜いていきました。すると今度は私がまるで後を付けているようになりました。速度が1.0と1.05なのですぐには離れない。マラソンで二人の選手だけかトップを並走しつつ、どこで仕掛けるかを探ってる状態を思い出します。だけどあまりにずっとすぐ後ろを歩くのも良くない。そう思い、すこし間隔が開くよう、速度を0.97くらいに落としました。

 こんなのは、わざわざここに書き残す意味があるのかな。ないよな。