二万歩歩く

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朝食のモーニングセットを高木珈琲で食べようかな、と思っていつも京都に来ると行く高木珈琲高辻本店に行こうと思ったが、頭の中で地図がひと駅、間違っていて、高木珈琲に行くときは四条のホテルネストなどに泊まったときのことで、今回泊まっている烏丸御池からはちょっと遠いのだった。それで前田珈琲を見つけたが朝の八時前で並んでいる。たぶん新型コロナウイルス対策で席数を制限しているのではなかろうか。結局八時オープンの一番客としてスタバコンセプトストア京都六角堂店で朝を食べました。

地下鉄で北大路へ。鴨川の川沿いを歩いて鴨川公園でニセアカシアメンバーと久々に会って話す。それからデルタまで下って歩く。出町柳の喫茶店で休んでから、タクシーで京都府庁旧庁舎へ。開催されている展示を二つ見る。さらに写真展を巡るべく歩く歩く。等々で2万歩歩いた。非常に疲れました。一歩が60cmとして12キロ。

ところで下の写真は閉店したなにかの店、レストランなのか喫茶店なのか、そういう飲食業ではないかもしれない、その建物の丸い窓に内側から貼られていた新聞です。覗かれるのを防止しているのだろう。それが海外の、たぶんアメリカの新聞だと言うのが少しオシャレです。この写っている範囲をくまなく調べると、どうやら2018年の9月頃の新聞のようだった。でもスヌーピーの生みの親のシュルツさんはすでに鬼籍に入られているから、それでも連載が続いているのはどういうからくりなのだろうか?過去作品を繰り返し使うのか、誰かが著作権を買い取って?新作が生まれているのか?

なんてことはさておき、この写真に写った四コマ漫画をじっくり見ても、私には意味が判らないのです。英語、苦手。スヌーピーラグビーをやっていて、何かを踏んづける。ボールを置いて、なに?と地面を見るとそこに何かがいる。それを見つけたスヌーピーは「RAH?」と言い、なにかはちょっとむっとしているか呆れているか、そんな風に見えるが・・・。RAHはフレーフレーなのかな、あるいはリアルアックションヒーローと読むのかな。四角四面に解釈しようとするから余計にわからなくなる。踏んづけた相手に応援してくれてる?と聞いて相手が、踏んどいてそれはないだろ!と思っているのかな・・・いや?それでなにかを隠喩しているとも思えないし。

鴨川と高野川の合流点になる鴨川デルタには人が集まっている。飛び石を渡っていく人が絶えない。いぜん、NHKテレビのドキュメント72Hでこの場所が取り上げられていた。人生の喜怒哀楽のバランスはみなに平等とはとても思えないような、苦しい人生を生きていた人がいたな。なんて書いてもその具体的なことまでは覚えていないのだが。またなかなか友達が出来ない学生もいたような。くるりの「宿はなし」に歌われる♪飛び石の ほら真ん中で 笑う顔 泣く顔 日も暮れた♪と歌われるのもこの場所だろう。この鴨川デルタとか、三条大橋の西の、先斗町北から降りた河原とか、若い人が集まって好き勝手に自分の時間を過ごせるような場所がいいですね。水の流れの近くやあるいは海の波を見ながら、人は目下の具体的なことの解決策や対応案だけでなく、懐かしさに浸ったり、未来を夢見たりするのだろうか。いや、別にそこだけでなく、下宿の小さな部屋でも、居酒屋の片隅でも、大学正門前の花壇のわきのベンチでも、そういうことは考えるだろうけれど、川や海の、水の流れや波の動きを見ていることで、それがなにか心の置き場を見つける「アシスト」になるのかもしれないな。

それにしてもここにも載せちゃったけど、この場所からのデルタの写真も、なんというかありきたりな写真ですねぇ。ウェブで「鴨川デルタ」と入れて画像検索すると、このアングルの写真ばかりが出てきます。

今日は夕焼けが燃えました。ちょうど四条烏丸辺りを歩いていた。ビルに切り取られた小さな西の空が真っ赤に燃えていました。

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ウィン・シャ写真展「一光諸形」展会場に置かれていた椅子です。

 

今年もKYOTO GRAPHIEへ

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夜22時過ぎ、烏丸御池の交差点。老犬?が飼い主の女性と信号が青になるのを待っている。私も待っている。私は道の向こうにわたり、少し左に行ったところにあるローソンに行こうと思っている。この時間になると人はまばらだし、車も少ない。信号が青に変わるが女性が進もうとしても老犬は渡りたくないと言う意思表示をしたらしく、二人(一人と一匹)は渡らずにこの写真の右の方に歩き始めるのが見えた。ローソンではポカリスエットを買った。

今日9/19日から京都国際写真祭(KYOTO GRAPHIE2020)が始まった。例年は春、四月中旬から行われるイベントが秋に延期となり、なんとなく規模もいつもより小さい感じもする。第一回目はたまたま京都に行っていて、そういうイベントが行われていることに気が付いて、ひとつかふたつか展示を見たと思う。以来、毎年欠かさずに通っている。今年も四連休に合わせて二泊三日で京都にやってきた。午前九時過ぎに京都着、ニセアカシア写真同人仲間のIさんが二日前から車で京都入りをしていらっしゃったのでIさんの車で妙満寺で開催している瀧本幹也写真展CHAOS2020にまず行ってみた。(途中で出町の商店街にある満寿形で鯖寿司+松茸うどんセットを食べましたね)

瀧本さんの写真展、素晴らしいですね。写真を襖絵のように使った下の写真なども、突飛な感じや奇をてらった感じはまったくせず、そこに収まり、凛として迫るのだった。妙満寺という昭和になって三条あたりから移動したという寺院の広々とした「雰囲気」がまず気持ちを落ち着かせてくれるようだった。

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そのあと、アトリエみつしまでマリー・リエス展を見てから近くの商店街(観光客とは無縁そうな地元の生活商店街)にある、とグーグルマップで「近くのカフェ」と入れて検索し、出てきた候補の中から選択した珈琲山居に立ち寄る。珈琲すごく美味しい。焙煎室から香ばしい香りも漂う。すぐ横の本棚を見たら、下の写真のウィリアム・エグルストンの写真集を見つける。ほかにも牛腸茂雄やケルテスの写真集が並んでいる。本棚の上段には鶴見俊輔の本が並んでいる。京都らしいな、と思う。

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珈琲山居のある商店街には、かしわ肉の店もありました。私の父(石川県出身)は、ふつうに「かしわ」と言っていたが、いま関東で鶏肉のことをかしわと言っても通じない人が結構多いかもしれないな。この写真を拡大してみると、コロッケ三個110円と書いてある。右側の冷蔵ケースの中にあったと思われる肉はほぼ売り切れているように見える。かしわ、とは書いてないけど、関東にも古い商店街などで「鶏・玉子」なんて書いてある肉屋さんを見ることがあったような・・・。京都には力餅屋と呼ばれる大衆食堂をよく見るけど、三条から四条の方に降りて行ったところにある力餅屋で「けいらんうどん」を食べたことを思い出した。京都で親子丼とか玉子丼を食べたことはないけれど、たぶん、優しい味なのではないか、と勝手に想像する。

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夜、とある店でぶぶ漬けを食べる。ぶぶ漬けとはお茶漬けのこと・・・でいいのかな?なんかぶぶ漬けと呼ばれるための必須条件があるような気がするが、どうなんだろう。美味しい。それからホテルに戻る道すがら、一番上の老犬に会ったのだった。

 

撮る人 見る人

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都内某所に街歩きに行くが、枚数は200枚しか伸びず、帰宅してから写真を見たら、まるでだめ。ここに載せても、まぁいいか、と思える写真がなにもなかった。そういうときは行き帰りの電車から撮ったこんな写真だけが許せる気がする。こんなことはしょっちゅうで、だからこのブログを長年にわたり遡ると、多摩川河川敷で遊ぶ人たちを撮った写真を使っていることがなんと多いことか・・・となるのだろう。

とある古書+新刊書店で大竹昭子著「スナップショットは日記か?」と言う薄い本を買ってみた。これは写真評論等でよく名前を見る大竹さんのプライベート文庫なのかな、カタリココ文庫からの出版物。

その冒頭のあたりに、写真を撮っているときは興奮のもとたくさんシャッターを切るが、帰宅してみると夢から覚めるようにどの写真もクズに見えてきて、一体なんだったんださっきまでのあの興奮は、とげんなりする、といったようなことがよくあると書いてあった。すなわち一人の人間でも、撮影現場で夢中になっているたぶんに幸せな「撮る人」と、冷静になって基本はがっかりするように出来ている「見る人」がいる、と言うこと。

これ、そうだよなあ。そして「撮る人」が自由闊達で決まりに縛られずにいるのに対して、たいてい「見る人」は既存尺度での良し悪し判断基準にのっとってしまう。本当は「見る人」が「撮る人」のように自由ならいいのに、なぜか世間に媚びてしまうような尺度を持ち出す。

でもね、今日の私のように「撮る人」であって、街を歩いていながら、ぜんぜん乗りが悪いってこともあるんだよな。

それからもっと大きな好不調の波もある。例えばこの私のブログのうち、今年に載せた写真だけに限っても、なんか4月5月頃の写真の方がいい感じがする。4月5月は、不謹慎だけれどあえて書くと、コロナによる緊急事態のなかの暮らしや生き方に「慣れてない」頃だった。慣れてないってことは、それが好ましくない緊急状況であっても、ある意味「新鮮」だったのだろう。その新鮮が写真にも写っていたのかもしれない。

などと考察したりする。

蓮の花

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今日は会社を休むことが出来て、自家用車を運転してクレマチスの丘にあるヴァンジ彫刻美術館で開催中の「センス・オブ・ワンダー~もう一つの庭へ~」展を観に行きました。雨が急に降り、それが豪雨になり、一瞬にして止み、日がさんさんとさす、変わりやすい天気。この展示にはとても浅い深度で独特の風景写真を撮るテリ・ワイフェンバックも参加していた。同じクレマチスの丘にある、いまは休館中(そのうち再開するのかな?)の伊豆フォトミュージアムで数年前に開催されたこの方の写真展も見ているし、もっと前に目黒のギャラリーでも写真展を見た。何回か見て、新たに見るたびに、惹かれる度合いが増している。もしかしたらこんなこともコロナも含めた不安定な社会情勢のなかで、自分の嗜好が変化しているのかもしれない。あるいは社会情勢とは無関係に年を経てそうなるのかもしれない。庭には睡蓮(でいいのかな?)の咲いている丸い池がありました。久しぶりにオールドレンズではない新しいレンズでたくさん写真を撮りました。

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なにかを待っている気持ち

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 新型コロナウイルスの終息を待っている、とか、いつか素敵な人と出会うのを待っている、など。待っているのはいつも、いまより安心できる状況なのかな。あるいは今よりこう変わってほしいという新しい望んでいる状況か。いや、そんなことはないですね。いやいや「待っている」ってこともあるだろうから。それより「ハラハラしながら待っている」「心配しながら待っている」の方がよほど多いかもですね。でもいまはすぐに、待たずに、結果が明かされるのかもしれないですね。紙の手紙を書いて投函して、そろそろ相手のところに着いただろうか、と指降り数えて、今頃読んでいるかな?と思い。ああ書けばよかったこう書けばよかったと反省し、それでも期待して。もしすぐに返信を書いてくれていると、あと三日すれば手紙が届くだろう・・・。そして大抵の場合、そんなに最高効率で返信など届かないのだった、むかし。いつ頃からか、2000年くらいもっと前かな、ラブソングの歌詞に「電話」と「(書く)手紙」が登場しなくなった。ユーミンの世界でも青いエアメールがポストに落ちていたし、よしだたくろうの世界では忘れたあなたに忘れられない僕が、河原の土手を走ったことを思い出しながら、手紙を書いた。さだまさしの世界では公衆電話に最後のコインが落ちて、スローモーションで思い出がフラッシュバックした。電話もね、お話し中だとつながるまで待たなければならなかったし、予約制順番待ちではなかったから、また当たるも八卦的に時間をおいてダイアルを回す。でもね、この待っている時間に不安や期待を抱きながら考えていたことが大事だったのかもしれないですね。

しかし、こんな年寄り臭いことを平気で書いているけれど、そうであれば今のひとは「待っていた」世代よりも幸せかと言えばそうでもないんじゃないか?そういう暮らしの標準の変化により待つことが減り、便利と言う単語で標準がそちらが良いという大衆指示のもと動いて行っても、みながそちらが良いと思ったときに期待したかもしれない幸せとは関係なかったかもしれないですね。待たなくてよくても、あるいは待つ時間の絶対値が短いだけで待つことの辛さやどきどき感は同じだろうし。ひとびとの苦しさが軽減したとは思えない。若い人たちもけっこう悩み抱えてつらそうだものね。

そう言えば、鷲田清一著「待つということ」と言う本を二回読んだ五年くらい前と二年くらい前。なのによく内容を覚えていないのです。本棚にも見つからないや。

赤信号で止められて、青になるのを待っている。雨が降り出した。交差点を曲がっていく車や反対車線で同じように青を待っている車のうえに、フクロダケのような形の白い光が写っている。ちょっと不思議。

もう一回、待つことについて。将来こうなっていて欲しいと今思いながら待っているそのときの状況が、いざその待っている時間が過ぎたそのときになった将来に同じようにその状況を欲しているかどうかはわからない。そのことも含めて未来は不安定で、不安定だからこそ、それが時間と言うことだし生きているってことなんだろう。そのときに欲していることが変わってしまっていたら、それまでだったってことなのか。

わっ、なんだか青臭いこと書いてしまいました。待ちましょう。

コロナ終息待ちましょう。

車窓の木

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電車に乗って、車窓から景色を眺めていると、そのうちに自分だけのランドマークのようなものが出来ている。例えばこの木ってバス通りに面した歩道に生えている。にしては枝を広げていてちょっと特長があるから、このあたりを通過するたびに、認識してしまう。グーグルアースって言うのですかね、航空写真の、あれで調べると、この場所は横浜市保土ヶ谷区の初音というあたりらしい。でもね、いまこうして緑の葉に包まれているこの木が、冬にはどうなっているのか?落葉樹なのか常緑樹なのか?春のあるときに花を付けるのだっけ?なんとなくネムノキで初夏に花を付けていたような気がするが、気がするだけでそうではなかったかもしれない。その程度の記憶だけど、でも一応、ランドマークになっている。ほかにもどこかの工場の壁にくっつくように生えている二本のメタセコイアの木のことも覚えている。あれは、戸塚と東戸塚のあいだだっけかな?

ある休日に、その場所に行ってみるかもしれません。

 

露出オーバー

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最近は往路も復路も太陽に向かう方向で運転する自家用車通勤で目が疲れてしまうのか、目の痛みやひきつる感じがひどくて目薬を何回も何回もさしている。それなのに、土曜日曜になると、家でじっと休んでいることが出来ずに、とにかくカメラを持って街に出てしまう。行き先なんかも明確な目的のもとに決めているわけではない。それでもなんか「今日はここにしよう」と言う小さな理由があるんだろう。しかしいざ出かけて帰宅してしまうと、最初にあった小さな理由なんかも忘れてしまっている感じ。今日は恵比寿から中目黒、さらに祐天寺まで歩いた。もう二十五年か三十年も前だろうか、会社の仲間とときどき祐天寺にあったカレー屋さんや、中目黒と祐天寺のあいだにある宮崎鳥の店などに行ったことがあったな。あの頃はまだどこの町にも古本屋があって、カレー屋さんで辛いカレーを食べながら、海外の地ビールを飲んだあとに行った、奥に細長い古本屋では天童荒太の四国を舞台にした上下巻だったかな読み応えのある単行本を買って、そのあと一緒にカレーを食べた連中で回し読みをすることにしたのだが、以前のその本の持ち主がずいぶんと意地悪な人だったのか、肝心の下巻のラスト近くのページが切り取られていた、なんてことがあった。あるいは、宮崎の鳥と冷や汁を食べた帰りには、祐天寺の別の古本屋に立ち寄った。その当時、本を見つけると買っていた赤瀬川原平さんの本を買った気がするが、それがどの本だったのかはもう覚えてない。もしかしたら、田中小実昌の本だったかもしれない。その頃はこの二人の本を集めてました。

例えばこんなことを思い出して、今日の歩くコースを決めたかもしれないですね。

祐天寺の町を暑さのなかふらふらしつつ、このままでは熱中症になるんじゃないか?と危機感を覚えながら歩いているときに、この木造平屋の家を改築したのだろうか、パンとコーヒーと書いてある店を見つけて立ち寄りました。けっこう混んでいたけれど、それでもひとつふたつ席が開いていたのでミルクフランスとホットコーヒーを頼んでゆっくりと汗が引いて行くなか、アイスコーヒーではなくホットにして良かったなと思った。店内は洒落ていて、ちょっと写真を撮ろうと思うが、オールドレンズを付けたデジカメは、Pモードだと、ISOが上がるのを抑えめに、室内だとけっこうすぐにシャッター速度が1/30秒とかになりがちで手振れが怖いから、ここはF4で1/80秒にしてあとはISOオートで適正露出を得ようと考えて、いつもはPかAVモードを多用するのにこうしてマニュアル設定したのだった。マニュアルといってもISOオートですから結局はシャッター速度&絞り優先の自動露出(をISOで)と言うモードです。でね、ありがちなのは設定をもとに戻すのを忘れてしまうことで、外に出ると炎天下だから、F4の1/80秒だと最低ISO感度でも露出オーバーにしか写らないのだった。と言う失敗写真が上の写真です。撮っても結果をその場で確認する、という行為をデジカメは出来るわけだけど、それ、なんか撮ってるリズムを壊す感じがするのでやらない。やらないから、すぐに設定が戻ってないことに気が付かない。失敗を量産する。と言うことだけど。かといって撮る度に見直すなんてめんどうだ。

最近はこういう失敗が多発するな。気が抜けているのか、写真がどう写るかの成果に対して無頓着なところが現れているのかな。この写真が意外にいい、とはいまのところ思えないですね。やっぱりこれは失敗な感じが・・・

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