
終戦記念日。私の父は1927年生まれ、母は1932年生まれ、終戦の日に12月生まれの父は17歳、7月生まれの母は13歳だったわけです。父や母が終戦の玉音放送なるものをどこで聞いたのか?リアルタイムで聞いたのか?あるいは戦争が終わったことをいつどのように知ったのか、生前にちゃんと聞いておけばよかったと思います。そしてもう聞けません。かすかに、母は近くの学校の校庭に集まって聞いたと言っていたような気もします。いま、この放送の全文をネット検索して読んでみましたが、よくテレビで取り上げられる「耐えがたきを耐え」云々のところは、後半のごくごく一部で、全体は思っていたよりずいぶん長いものでした。そんなことも知らなかったのか!と自分ながら情けない気になります。それから、調べたサイトにも「現代文訳」が併記されていましたが、当時、ラジオの前でその放送を聞いた人たちが、その聞き取りずらい「玉音」の意味をリアルタイムで理解できたのでしょうか?
母は前橋に疎開していたようです。東京大空襲の日には前橋から、東京の空が真っ赤になるのが見えたと言っていました。防空壕に逃げたこともあったそうです。父は、陸軍の学校にいて、起床から朝礼整列までのあいだにやらなければならないことを、こなしていく順序を、同室の仲間と一緒になってセオリー(例えば最初に着替えてから歯を磨き、洗顔する)から組み替える(たとえば着替える前、洗面所が空いているうちに歯を磨いてしまう)ことで、混雑を避けて、首尾よく整列に間に合えたこと。ラッパのメロディとその指示の意味の関連。そんなことを話してくれたり、教えてくれたりしましたが、敗戦からの日々については、聞いたことがありませんでした。たぶん、あんまり話したくなかったのでしょう。来襲してきた米軍のグラマン戦闘機に一発だけ銃を撃ったことがあるとも言っていましたが、前線に送られることはギリギリなかったようです。
すなわち、ちょっとした逸話をごくたまに話すだけで、戦争について多くを語りはしなかった。私のように、今になり、すなわち父も母も亡くし、もっといろいろと聞いておけばよかったと、後悔の思いを持っている人も多いのでしょう。先日、NHKテレビで手塚治虫が戦時中の自分の体験を描いた作品「紙の砦」のドラマ化放送を見ましたが、たぶんCGやAIが作った、焼夷弾が雨のように降ってくるのを見上げる場面の動画映像は、そうだったという話をいくら聞いたり読んだりしても想像出来なかったような凄まじさを映像が一瞬で伝えてくれました。それなりに史実に基づいて、すなわち一機のB29から何発の焼夷弾が落とされ、編隊の機数からして、こう見えただろうという確からしい推定で作られた映像なのだと思います。あの下を生き延びた人、亡くなった人、もうただの運のみで、逃げ惑うことすら意味もなく、あの場面だけでも、(聞いたり読んだりではそこまで戦慄出来なかった)戦争の恐怖を実感できました。映像はすごいですね。
このように、わたしはせっかく父と母にその体験を聞くチャンスがあったにも関わらず、それが出来なかった。それでも、いま、小さな子供たちの将来に、たとえば徴兵制が復活していたり、殺人ドローンが敵国の一般市民を数百万人レベルで個人認証できて、いつでもひとりの個人を殺傷できる能力を纏ったり、そういう殺伐とした世界にならないように祈りたい。あるいは地球温暖化で人の居住スペースが減少し、土地や食料の奪い合いにより、それが大きな戦争につながることがないように。科学の発展が表面上の便利を提供することで支持を取り付けてきた歴史の結果、便利のしっぺ返しが人類そのものの衰退や滅亡を予兆させる方向へ向かってしまうことにならないように。
上の写真は前回のブログで書いた光線漏れを起こしてしまうカメラで撮ってあった写真です、オレンジの部分が光線漏れです。全体として少し黒が浮いている感じとか、フイルムらしい写真になっています。終戦記念日の土曜日の午前、この光線漏れするカメラの遮光用モルトの貼り換えをずっとやっていました。午後には墓参りに行き、夜はJリーグの試合をダゾンで観戦しました。






