アートって


 朝起きるとテレビを付ける。別に付けなくても構わない。その理由は希薄である。希薄であるのだが、まあだいたい毎朝、付けてしまう。世の中のニュースを聞いておいて損はない、社会人としてはその方が真っ当である。朝のテレビには時刻表示が出ている。それで家を出るまでのあいだにやるべきことが、洗顔とか髭剃りとかですが、そういうのがほぼ妥当に進行しているかをチェックしている。あるいは、映っている可愛い女子アナウンサーを見てしまう。総じて「初見」よりも「その後」の方が可愛く見えてくる。江崎さんとか。
 でも、付けていない時期もあった。付けなければ付けないで、支障はない。節電の暗い街並みでも大きな不便を感じなかったのと同様に、テレビが付いてなくても壁の時計を見れば「妥当な進行」かどうかわかるし、江崎さんは私が毎日見なくても、怒ったりしない。いつも通りミニスカ姿でいることだろう。
 付けない時期にはテレビ批判ができるから内心で、テレビ嫌いの今の私が、もう一人のテレビ好きの私をあざ笑ったりする。マスコミ操作されているニュースなんか見たって本当のところは判らない。だから総じてテレビはくだらない。くだらないものを見るのは時間の無駄どころか害ですらある。だからテレビを付けないのは正当行為である。みたいな思考回路。
 テレビを付けている時期にはこれがくつがえる。

 30日の朝、テレビを付けて、朝の準備を進めていたら、菅野美穂のコーヒーアートが完成、とかいうニュースが流れた。菅野美穂はいいと思います。チオビタのCMとか。とくにくるりのジュビリーが流れていたころの。
 ひっかかったのは、アートなのか?というところ。菅野美穂の顔を紙コップに注がれたコーヒーの色をミルク量などで変えて(ただの何も入っていない白い紙コップ、ミルク多めコーヒー、ミルク少な目コーヒー、ブラックコーヒー)そういうコップを何千個か(あるいは万を超えているか?)並べて遠くから見ると、菅野美穂に見えるようなものをコーヒー会社が(でいいのか?)作ったというニュースだった。
 それってアート?と、通勤電車のなかで不意にそのニュースを思い出して気になりだした。PCで菅野の写真データを四か五か、いくつくらいから判別可能なのかわからないけど、輝度をそのくらいの少なさに圧縮し、解像度も落とし、そうすればどういう順にどの濃さのコーヒーカップを並べればよいかの設計図はすぐにできてしまうだろう。これらの設計図作成作業はあきらかに公知であってなんら新規な試みを含まない。そういう既存の方法で作られたコーヒーカップ絵画は果たして「アート」なのか?
 私は芸術論も芸術原論もちゃんと学んだことはないからわからないけど。アートというのは何なのか?いままで人のやったことのない表現手法が条件ならば、点描絵画は手法は古く、当然アートとは言えない。では手法に新規性がなくてもそれを使って生み出されるものに新しさがあればアートなのか、でもそこに女優の笑顔のデジタルデータを持ってくるなんてミーハーあるいは、これは確かにマスメディア的であって、アートではない。これでは小学生の描く水彩画よりもっと劣る。
 うーんと、ではその表現テクニックが優れている故に万人には作れないレベルの何かを生み出していればアートなのか?って、これは職人技の方がしっくりこないか?
 と、ここまで考えて「おさらい」をしたら、そうか!と思った。上の条件に再度照らし合わせると、四つか五つかに圧縮した濃度信号を具体的に表現に置き換えるところで「コーヒーを使った」という点は、これはもしかしたら確かに新しいかもしれない。芸術手法としての新しさというよりマスコミの戦略的なアイデアのようだ。しかしとにもかくにも新しい表現手段であるかもしれない。ということは、コーヒーを使うという点に着目した最初に人間が、表現極北を開発したという芸術家たるものなのか?それってたぶん、コーヒー会社の広報部の人間とか、そこから委託された電通とか博報堂の担当者がひねり出したアイデアだろう。だから広報部と電通博報堂はアーティスト???
 結局は、猫も杓子もアートだアートだと言うからおかしくなるのではないか。世の中に枝葉となって広がった数多くの音楽の分類や、個々の(芸術家たりうる)音楽家の個性を、スーパーの大量生産品のごとく、そのテイストを掬い取って真似し、それらしき音楽を次々とアイドルグループに歌わせている、それは応用とか派生とかにも満たない、インスタント麺みたいなアイドルの新曲だ。しかしそんなことを書きながら、一般市民にとっては、テイストを維持しつつも流行に寄り添うようにうまく料理された音楽(=流行歌またはポピュラーソング)は、それこそ安心して楽しく聞けるし、そんな音楽でも詩の力により感動しさえする。それは数年数十年を経て、本当にすごい音楽の力を身に着けさえするから素晴らしい。でもこれはアートなのか?アイドルグループはデビュー曲を出した途端にアーティストになるのか?
 とかなんとか鹿爪らしく考えていたら前の席が空いたから座って、本を読み始めたから、アートかなにかなんてどうでもよくなった。

 心をざわめかせてくれるものがアートならテレビで見る限りの菅野美穂のコーヒー絵画は全然そんな風ではなかった。しかし、では世の中でアートたるアートは必ず心ざわめかせてくれるかと言えばそんなことはないわけで。だからこんな否定的なことを書いても仕方がない。個人にとってのアートがアートみたいなことに流れていくとつまんない。
 たとえば紙コップコーヒーによる(菅野美穂の)点描を、どこかに設置して、そこに絵があることを知らない観客のような第三者が適当にコーヒーを手にして飲んでしまう、というようなことをやって、絵が崩れていく仮定をビデオで記録する、とかなんとか複雑なことを工作すると、またそれこそアートみたいな言い方が出てくるのか?
 やだやだ。今の使われ方のアートなんて単語は封印した方がいい、ちゃんと考え終わるまで。
 というのもこれまた狭量で・・・