変化の過程


 日本カメラ誌の昨年12月号に写真家十文字美信氏へのインタビューが掲載されていた。グラビアに掲載された作品「残欠」に関するものだ。写真家は、西欧的な考え方はなにごとも「ずっと同じ形で保とうとする」、一方で日本というのは「無くなっていくのがふつう」で、無くなっていく過程に「情をこめたり」、その過程を「美しい」と感じていると言っていたと思う。時間の経過の中で変化が起きて行ったり(たとえば「動物に齧られたり」「炎にかかったり」による変化、など)そういう自然の力により、人の力が作った物が変わっていく過程が面白いと感じる、と言っている。

 大晦日だったかな元旦だったかな、NHKのテレビで村上春樹が日本ではなく海外でどう受け入れられているかを取材した番組があった。その番組では、村上作品を、ファンタジー要素の有無で二つに大別整理して分析しているようなところがあった。日本や台湾では、ノルウェイの森のような「ファンタジーのない」系統を支持する割合が高く、欧米ではそれに対して「ファンタジーのある」系統の小説がより好まれているそうだ。ファンタジーのある系統として「海辺のカフカ」とか「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」とか「羊をめぐる冒険」が挙げられていたようだった。短編では「象の消滅」とか。そして、欧米の読者はそれらのファンタジー系の村上作品に「結末がない」「結末が曖昧」であると感じていて、それを「日本的」と感じているらしい。日本人が村上作品を読むと、一度英語で書いてからわざわざ和訳したのが最初に書いた「風の歌を聴け」だとかいう、本当か嘘か私は知りませんが、どちらかと言うと村上作品はそこまでして書かれた「欧米的」で「日本的」ではない小説だ、だから洒落ているのだ(歌謡曲でなくJPOPだ、といった訳の分からないような)、と感じる方がいたりしそうだけれど。すなわち西欧人から見たら、はじめてわかりやすい「日本的な表現」が小説で現れたといった受け入れ方がされたのかもしれない、と感じて番組を見ていた。もしかしたら、十文字氏の言っているようなことへの美意識が、あるのかもしれない。

 曖昧さというのは、なにも解釈に回答ができずない放り出される結末、結論のない結末、とも考えられるが、異なった多くの視点からの複数の結末を、鑑賞者(ここでは読者)それぞれが用意できる冗長性みたいに考えると、多数の結論が考え付く結末、ってことかもしれず、いいじゃないかそれって!と思ったりもする。

 もしかしたら、日本人の「あきらめるまでの早さ」「忘れていく早さ」言い換えると、「水に流してしまうまでの早さ」は、そういうところ(変わっていくことをやすやすと許容する、等)から現れる特徴で、それが国際標準と違うから、なんやかんや起きるのかもしれない。

 吉田健一著「金沢」の主人公が金沢市内に持つ別宅の玄関前の光景は、そういう変化していく(きれいな状態から荒れていく方向への変化)途中の段階の「妙味」を維持するために庭師を入れて、そういう途中段階を固定しているように書かれていたのではないか。いま、北にある寒い部屋の本棚にその本を捜しに行ったが、見つからないうちに寒さで身体が冷えてきたので早々に退散したから、くわしく確認できないのだが。

 私が、こんな風(上の写真)に、古いプリントを見直して、時間を経たから変化した視点のもと、さらにインクジェットプリントの質の低下(変化)も相まって、変化の途中にある自分なりに感じた「妙味」をまた接写することは、実はそういうところからの行動なのかな。
 2005年から2010年ころに須田一政写真塾で毎月一回、須田先生に選択してもらった写真の月別にまとめられた束から、無作為に×年×月という束を五つか六つ見直した。これはいつもいつもそうなのだが、今よりも過去の私の方が写真が各段に上手だったように思えるのだった。

 もう一つ気が付いたのは、そこに写されている建物や街を形作る土木要素が、数年のあいだに、多くが取り壊されて無くなっている。被写体を選ぶ段階で、なにか消え去ることが迫っていることをかぎ分けて撮っているようだった。

 日本写真というもの(森山、荒木、深瀬、等)が欧米で受けているなんて記事を読んだ気もするが、それももしかしたら「コンセプトの曖昧さ」「コンセプトの希薄さ」が「日本的コンセプト」という上位のコンセプトに包まれて、受けているのかな。もちろん、それだけでなく、明確なコンセプトを持った人もいるのでひとくくりにはできないが。

 今週は昨秋に買ったまま読んでいなかった木内昇著「漂砂のうたう」を読んだ。読みだしたら止まらなくなり、木曜から金曜に至る夜には二時間しか眠らなかった。

漂砂のうたう (集英社文庫)

漂砂のうたう (集英社文庫)