写真とは

 4月29日みどりの日、晴れのち薄曇り。JR東日本横須賀線逗子駅から年若の友人と二人で、写真を撮りながらぶらぶらと歩き、わっぱ定食をSeedlingで食べ、みさきドーナツをひとつ買い、葉山マリーナは通り越し、イヌイットコーヒーロースターで珈琲をテイクアウトし、とんびに襲われながら砂浜でドーナツを食べる友人を笑い(自分はまだ食べない)、森戸神社にお参りし、神奈川県立近代美術館葉山で吉田克朗展を観て、小磯の鼻まで歩き、バスで逗子駅に戻り、勘で選んだ居酒屋「ざくろ」でそら豆や筍やほたるいかを食べ満足する、という一日を過ごしました。薄曇りのフラットな光線もいいな、と思いながら、例によってワンパターンの人が小さくちらばって写っている写真を撮り歩きました。カメラはミラーレスのデジタルカメラだけれど、レンズは70年代のオールドレンズで、そのせいかなんとなく黄色というか茶色というか、色が転んでいる感じがしますね。でもこれそれこそ70年代頃の日本で撮られたニューカラーっぽい写真の「感じ」がする。

 70年代。たとえばUSAに本当のウェストコーストロックがあって、それに影響を受けた日本のバンドが演奏した当時の曲を今聞くと、あぁこういうふうにみんな追っかけのように憧れの洋楽を自分たちで「本場らしく」演奏していたんだよなあ、でもやっぱり日本的なんだよなあ、と思うのと似ている。そしてその「日本的」から脱しきれない演奏が、それはそれで独自性があって今聞いても面白い。その今聞いて面白く聞こえる「70年代の日本人が真似ていたウェストコーストロックっぽい感じ」を、2024年に再現したような二重構造的な曲があったとする。そういうことが写真にも起きたのが、この写真に見えました。これはレンズの特性がたまたまそう写ったことに寄与したのか、それとも、日本の今日のこの場所が持っていた色温度が西洋とは違って日本らしさを色温度として持っているのか。

 少なくともわたしの撮影技法とかはまったく無関係にカメラとレンズとこの場所がそういう写真を作ったということです。適当に小磯の鼻(この場所の名前)に向けてシャッターを押したのが自分だというだけで、その行為は写真のアシスト的な行為に過ぎないんじゃないか。もう圧倒的にこの場所がこういう風に推移していまここにあるということ、それを舞台で演奏したり歌っているアーティストに例えると、そこにカメラを向けてシャッターを押すなんて行為はたかだか客席の一人の客の一回の手拍子に過ぎないよなあ。

 この殺風景な写真ではなくてもっと誰もがすぐにきれい!と思う絶景風景写真。そういう絶景風景写真をずらりとカメラを並べて誰もかれもが同じ瞬間にシャッターを切って、しかもこうやって撮るべきという先生の指南があるような、その結果たしかにすごく美しい写真が皆さん撮れました、だから嬉しいとか褒められて意気揚々とか、そういうことってどういう理屈なんだろう?有名観光地に行くとフォトスポットとして足跡が示されていたりスマホを置く台が設置されていて、そこで差異のない「いい写真」を撮ることってなんだろう?少しでも違いを生もうとカメラを低く構えて水たまりを水鏡にして・・・・でもそれだって誰かがSNSに手法を発表した途端に既存の真似しんぼになるんだけど、なのに満足できるのはどうしてか?観光地のガイドさんが「では以上で説明は終わりです、あと五分ほどあるので、皆さんあそことあそこがポイントですよ、さぁ写真を撮って」と言うのはどういうことか?

 というようなことについて、先日KG+のとある展示でそのことを考えながら作品をまとめていた写真展があって、その方は、それはもう人が撮った同じ写真で共通の「いい」写真なのだとすればAIに任せればその本意をくみ取っていい写真が作れるはずとばかり、有名観光地で撮った写真からのコラージュを、AIにやらせた作品を並べていたんだけど、なんだかとても皮肉っぽい行為であり、でもその発意はなんだかとても共感しました。

 写真を撮ることなんて、風景や光景の素晴らしさに対して、一人の観客が手拍子をして応援しているようなものだな、と、これ今日の気づき。明日になればまた違った考えをするんだろうな。

 こう考えてくるとやっぱりコンセプトのようなことを定めて作家の表現意図を持ってそれに沿って撮るということがなければ、写真の表現とは言えない・・・のかな?

 とかね・・・やれやれ小難しいことを・・・