スマホのメモ帳機能に、たまになんか書き残してある。習慣になって頻繁に使うと言う訳ではない。結局、スマホを出して、四桁の暗証番号を入れて、メモ帳を開いて、と言う一連の行為に面倒臭さがあるから、そのときの状況により、それは自分の気分も含めての状況と言うことだが、書き残したい熱意が面倒臭さのハードルを越えることがあまりない。しかもそのとき書き残したかったことが後日になって、あぁ書き残しておいて良かったな、と思うことはあまりない。場合によってはなんのことを書いたのかすらわからない。書いたときには当然わかっている前提のところが消えて(忘れて)しまうと書き残されたことが、糸の切れた凧みたいになる。
例えば『熟慮、思索、はどこへ?紙の本からスクリーンへ』とメモが残されている。少し前に、インターネットの次に来るもの、と言うビジネス書になるのかな、社会の(世界の?)近未来を予想と言うより明示した分厚い本をパラパラめくる機会があった。人々は膨大な本を収集した図書館を持ち歩くことになる。即事に調べたい情報を言語の壁や時間の壁を越えて、手もとに集められる。しかも、その人に合わせてそれらの情報は編集されて、もっとも効率的に知りたいことや学びたいことを提示される。例えばこんなことになるとして、一方でこの著者は紙の本の持つ、ネットに繋がったスクリーン上に表示されたテキストにはない(もしくは少なくなる)違いとして、ページを行ったり来たりしつつする読書の幕間のような時間に頭の中で起きている熟慮や思索のようなことも、紙の本の特徴としてちゃんと認識しているようだ。すなわち、文章を(あえて本とは言わずに文章を)読むことで同時に起きていたそう言う身体反応のようなことが発生しにくくなっていく。実はそっちのほうが重要かもしれない余白がなくなっている。と思うのだが、人が生きて大人になるために、熟慮や思索が必要なことならば、読書からその機会を放棄したにせよ、紙の本を読む余白から得ていた熟慮や思索の機会を失なっただけで、その分は、別のどこかに分散して行ったか、ほかのまた置き換えられていないそう言う機会に集中するかしてちゃんと残せているのかもしれない。そう悲観しなくても良い。そう思いたいものだ。人々が熟慮や思索を放棄し、みなブラックボックスにして自己免疫破壊のようにしてバカになって行く、なんて言う簡単な懸念は、実は過去のすべての時代にもあった、老いた世代が新しい世代を嘆く為の常套手段に過ぎないのではないか。きっとスマホの操作やスマホのゲームの中にも、熟慮や思索をする機会がある。だから大丈夫、そしてその新しい熟慮や思索機会に馴染めない私のような人は、旧来通り紙の本を読んでればいいわけだ。
とかなんとかを考えたり、こんなことを書くきっかけになるだろうと思ってメモを残したのかどうか、いまそのメモを読んだら、そこからこんなことを書けたわけだが、メモを残したときに思っていたことがこう言うことだったのかは、怪しいものだ。藪の中である。
でもってこの文章もその同じスマホのメモ機能を使って書き、書き終わったらコピペしてブログにアップしているのです。
朝、ベッドの下に突っ込んであるクリアケースを何か月ぶりかで引きずり出す。三つのケースに入っているものを二つに集約し、空いた一つに、二本の山積みタワーになって床から延びているCDをしまいたいのだ。足の踏み場が減っている。自分の部屋だからそれでも不便はないが、それにしてもね!と思うのだ。マンションには定期的に、消防設備点検や雑排水点検で業者が入る。その予定が迫ってくると少し整理をし始める。もし定期の点検がないと、どこまで散らかるのだろうか?ケースのうち一つには、2004年から2013年(?)まで月に一度、ずっと通っていた須田一政写真塾において須田さんがセレクトしてくださった写真が入っている。一度に少なくとも五十枚、多いときは三百枚のプリントを持って行っていた。そのうち概ね二、三割かが選ばれた。一度だけ、五十枚くらい持っていき、(五十枚)全部良いですね、と言われたこともあった。以前は持っていった写真を選ばれなかったものも含めて保管していた。後日に、選ばれなかったものと選ばれたものを見比べると、なにか見えてくるかもしれない、と思ったに違いない。しかし、実際にはそんな風に見返すことはしなかった。写真のプリントが溜まりに溜まる。あるとき、選ばれたものだけを残して、あとは概ね廃棄した。しかしあくまで「概ね」で、自分が気になっている写真は、選ばれていなくとも残していた。しかし選ばれた写真も含めて、滅多にこのケースを開けない。断捨離からすれば開けないならなくてもいい、なくてもいいなら捨てましょう、となるのだろうか。そんなことできるわけがない。ここにある全部の写真を須田さんが一枚一枚高速で捲っては、一瞥で面白いと感じたもの、たぶん理屈を考えるより早く、目が画像をとらえた瞬間に起きる小さな感情の波が起きたかどうかで分けられた写真なのだ。すなわち、このボックスを再整理してもせいぜい、自分が気に入って残した写真から、少しだけ廃棄するのを選ぶことが出来る、と言う程度のことで、整理と言うより廃棄の進む可能性がほとんどない。結局は整理と言うより、写真を見ることになる。
こんな写真を撮っただろうか?と言う、はじめて見るように感じる写真があったり、この写真いいねえ!とあらためて自己満足をしたり。根が暗いのか明るいのかは場合によるのかな、自分の撮った写真を時間を経てみると、このころは面白い写真が撮れていたものだ、と楽天家のように感心する。そのぶん、いつも、最新の写真が気に食わない。
七年か八年前に、プリンターメーカーの純正紙ではない安価な用紙にインクジェツトプリントした写真は、インクがにじんで解像度が落ちている。黒が滲んで広がるようだ。黒が少ないプリントは色によって程度の違う色褪せ方で、ぼんやりとしている。なんだかデジタル時代以降になってできたシステムの成果物であるプリントが、突然アナログっぽく、新品のレコードが何度も針を落とすうちに擦り切れてノイズが乗っていくように、時間とともに劣化していた。デジタル時代のさなか、そんなところにアナログっぽい儚さがあるのが面白い。閉じ込められたアナログ的なものが時間の経過のなかで蜂起したようで、ちょっと劣化しているのが痛快ですらある。と言うのも、その劣化したプリントが面白いからだ。
写真は、変化していく一瞬をとらえる。目の前のそこが必ず変化するからそれをとどめようとする・・・ってそれだけではないが、それが基本原理の一つだ。例えば2008年に撮ってプリントして、これから先も経時変化して劣化していく途中の、2017年の状態を、またとどめようとして、こうして写真をスキャンしてみました。堂々巡りのようだが、きっと写真の基本原理ですから。