カメラ用語で言うところの大口径レンズの大口径にした状態(明るい絞り値を開放にした状態)でファインダーを覗くと、目で見えた「そこ」と、撮影レンズを通した像となった「そこ」は違う世界だなと思う。特にピントの合ってないところが。そう思うのは人の目で見た「そこ」のピントがぼけているところを見ようとしても、人の目はオートフォーカスだから見極められない、もしくはとても難しいし、近視用メガネを外して、0.1以下の視力で「そこ」を見てもこんな風には見えない。ぼーっとしてはっきり見えないが、私の場合だけなのか、乱視も入っているからか、物が何重にも重なって見える感じになるが、こういう丸ボケは近視であってもこうは見えない。カメラのファインダーを覗いて、こういう風に大きくピントを外して、丸いぼけばかりの画面にし、そこに風が吹いてきて、この丸ボケが海月が水のなかを漂うかのごとくゆらゆらと動いたり明滅するのはとてもきれいだ。だから今日はどこにもピントの来ていない写真を載せてみました。撮るときだって、これをこうして撮りたくて、シャッターを押したから、失敗写真でもなんでもない、私が撮りたかったのがこれなのです。
5月4日、土曜日。午後7時頃から10時過ぎまで、昼寝というのか遅い昼寝というのか、なんだか眠気に勝てずに寝てしまいました。昨晩、U23のサッカー中継を深夜テレビで眺めていて寝不足だったのかもしれない。
起きて、遅い夕食を食べました。NHKテレビ、EテレだったのかBSだったのかな、フジコヘミングを取材した1999年のNHKスペシャルが放送されていて、2000年に市川準監督の「ざわざわ下北沢」という映画が撮られているのですが、そこにもフジコヘミングが登場していて、このテレビ番組とこの映画がほとんどシンクロするよう。ドキュメンタリーでも映画でもフジコヘミングは同じ自分をあるがままに、そこにいるのでした。映画は脚本があるものの、主人公がたしか祖母役のフジコヘミングを訪ねて行き、そこで彼女が話すことは、決まった台詞がないように思える、下北沢の印象を自由に話している。話している内容こそ違えど、番組と映画とでフジコヘミングが話していることをこっそり入れ替えても、なんの違和感も起きないんじゃないか?と感じるくらい同じで、これはもう人として自分をありのままただ出しているという強さのせいなのだろうな、と思いました。ご冥福をお祈り申し上げます。
そのあとに今度は五味太郎のドキュメント番組になり、これは昨年放送されたときも見た番組の再放送だったが、五味さんがチェロを、パートナーの女性がピアノを弾いたデュオ演奏されるトム・ウェイツのクロージング・タイムが素敵だったなあ。みんなは自由に楽しめばいいのに、なんで先生の評価をもらいたいと思うんだろうね(もらわないと安心できないんだろうね、だったかも)、自ら自由を棚上げしている、と言うような感じのことをおっしゃっているのが印象的でした。NHK俳句の本を捲りながらそう言っていた。
すっかり夜更かし。