浮雲


 会社帰りに横浜石川町、横浜中央病院裏にあるPAST RAYSに須田一政写真展「浮雲」を見に行った。
http://www.pastrays.sakura.ne.jp/pg135.html
 DMに書かれた須田さんの文章がカッコいいので転載します。

 松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭部は、若い頃読んでから今日まで脳裏に浸透していて、ふとした折に思い起こしては感銘を受けている。それも現在73歳になった私だからこその実感で、古人の言葉はますます重みを増すばかりである。
 「浮雲」は1973年にカメラ専門誌に掲載したシリーズだ。当時、モノクロ写真ばかり撮っていた私が初めてカラーで発表した作品である。『片雲の風にさそはれて・・・』ではないが、空に浮かんだ雲を眺めては旅心をかきたてられ、雲の方向に車を走らせた。追いつけないからこその何かへの思いが、日常を離れるほどに満たされていく気がした。
 年月を越え、この作品がまるであの時の雲のように感じられる。カラー写真ならではの時の隔たりに「旅人」である自分を思い知らされている。 須田一政

 「空に浮かんだ雲を眺めては旅心をかきたてられ、雲の方向に車を走らせた。」って、カッコいいなあ。こういうのをカッコいいと思うのも世代との相関があるのかもしれないが。奥田民生の「さすらい」の歌詞にある(さすらう理由として)♪雲のかたちを真に受けてしまった♪というのを思い出した。
 帽子を被った男がシルエットになっている、どこかの店内から窓の方向を撮った写真からは、もうそんな小説を読んで何十年か経っていてその物語の詳細なんか忘れてしまっているのに、それだからもしかしたら勘違いかもしれないが、記憶が正しければ川崎長太郎の短編にあった千葉に小旅行に行くような話を思い出してしまった。その写真を見なければ、決して思い出したりしなかった記憶である。
 どこかの壁に掛けられた地図模型を撮った写真があった。湖とそれを囲む山が迫った地形の地図で、その地図を収めた額のようなもののフレームが左側に写っている。旅に誘われたから地図を撮ったみたいな意図があるわけではなく、旅先で出会った地図模型に昼間なのか夕方なのか日が当たった旅先の風景にカメラを向けたということだろう。
 私の最初の個展「流星」に展示した写真は須田先生にセレクトしてもらった。そのなかに、信州のパン屋の壁に貼ってあった地図の写真があった。須田先生に選んでいただくまで、自分がそこにカメラを向けたにもかかわらず、その写真が気に入っていたわけでもなんでもなかった。選ばれたあともすぐにはその写真の持っている意味というか力というか、そういうことがよく判っていないまま展示したかもしれない。先生が塾生の写真を見るときに(写真の上手い下手はさておき)すでに先生にとっては数十年前に辿った道かもしれないが、なにか共感のような感情を覚えて、写真を選んでいることがあったのだろうか?とか、生意気かもしれないけど、そういうことを考えたりもしました。

 帰宅後、NHKBSで山下洋輔チュニジアチュニスを再訪問するドキュメンタリー番組を見た。前回と今回のあいだに革命があって、それをくぐってきた前回訪問のときに共演したミュージシャンとの再会という設定のなかで、彼等が革命で何を得てそれが音楽にどう寄与したか、それを山下がどう受け止めたかとか、そういうことがインタビューなどで語られるのだが、そういうNHK的(?)な物語はさておき、山下洋輔71歳が、すでに自分の築いてきた演奏スタイルを自分自身で懐古的視点で語りつつも、いざ共演がはじまると否応なく現場の丁々発止をけん引するその姿を、七十代の演奏していないときには老人然とした山下洋輔を見ていると、同じ七十代の須田一政の最近の写真への姿勢を思い出し「なにかを極めよう」なんていうことを発意したわけではなく、結果として極めている人たちの、そのなにかへの今もあふれる愛情と尊敬と真摯な取り組みぶりが、これまたやたらとカッコいい!と思った。

 写真展「浮雲」を見た日、なぜかいつも鞄に入れているコンデジを忘れてしまっていたので、上はスマホで撮影した写真です。