YOKOHAMA散歩


 義父の墓参。12:30、井土ヶ谷駅前の中華料理屋でエビチャーハン。妻と別れ、京浜急行赤い電車に乗って日の出町。野毛、伊勢佐木町横浜橋商店街、再び伊勢佐木町を戻って関内駅より京浜東北線に乗り大船。東海道線に乗り換えて茅ヶ崎着16:40。ドトールで珈琲を飲む。
 上の写真は野毛の路地に置かれていた花。

 昨日購入した「海賊盤」の1976年のザ・バンドのライブCDを聴いていると、音が悪いことも含めて、これぞまさに観客席のどこかで聴いている聴衆の聴感そのもので、こういうのこそLIVE盤だと、本末転倒かもしれないけど、そう思ってしまう。野外フェスのそれなりの後方の席なんかにいると、若干のんびりとした気分がただよっていたり、私語が聞えてきたり、拍手の音も正式なライブ盤で集音しているポジションと違って私のいるその場所で聞える拍手は、もちろん自分の拍手や周りの人の拍手がちゃんと聞き分けられるような聞え方だ。巨大スピーカーから聞えてくる音はそんなにいい音ではなくて(ライブを聴いている人より正式なライブ盤を聴いている方が音はいい)。「海賊盤」は、そういう聴衆の一人の位置から音を拾っている。それがものすごく生々しくて、その一瞬を今ここに再現する能力はこういう「海賊盤」のライブ盤の方が優れているのではないのか?と思った次第。
 ザ・バンドの演奏も、なんというのかな・・・ツアー(って、このライブがツアーだったのかどうか知らないけど)のバンドの倦怠感とか、繰り返し同じ曲を演奏するというライブにおける「創造(作曲や作詞や編曲や音あわせや初めての収録みたいな行為?)」ではない「作業」とか「再現行為」に近い、「労働」のような感じも伝わるし、それでもそんな中でとにかく手は抜かないというプロの仕事みたいなこともわかる。
 そういう風に生々しいと、この演奏が既に34年前のものだという「知識」をもって聞いてしまうと、なんだか「34年前にこの演奏が今だった時間が流れていた」という当たり前のことが、なんというのかな・・・まあ漢字のイメージで誤魔化してしまうと「哀しい」のに「誇らしい」みたいに感じて胸に迫る。

 こういう「力」を写真に置き換えるとどういう作品を撮る行為に相当するのかなあ???など、考え込んでしまう。


ふるい雑居ビルの隙間(コントラスト上げてノイズ付加)


通行人(コントラスト上げて、彩度落として、ノイズ付加して、若干ソフト)


運転席で本を読む男とジャンパーのチャックを上げている男(いろいろ)