批判の意味


 19日、土曜日。浅草橋のギャラリー「マキイマサル・ファインアーツ」で元須田塾の塩崎さんの個展「目刺し」(2Fのギャラリー)と、大阪須田塾の大橋さんの個展「緑内障」(1Fのギャラリー)を見る。
 塩崎さんの展示、作家の視線が向いた先にあった光景に、興味が向いたまま素直にカメラを向けた、その収穫をこれまた素直に並べたという印象。塩崎写真収穫祭!というような。
 個展で写真を並べるときの「つらなりの意味(この写真の次にはこの写真を持ってきました、なぜなら・・・という理由)」を、鑑賞者に媚びるようにわかりやすくしていこうとすると、どんどん写真の広がりが狭まって、同じような写真(同じ被写体を集めた写真)ばかりを選ぶことになっていくように思う。その「枠」の広さをどこに置くかによって、写真の見方の難しさみたいなことが変化するのかもしれないな。広いと複雑で判りにくいが、判ってしまえば奥行きがあって様々な読み方を仕掛けてくる。狭いと明快で判り易く、言い方を悪くすれば「媚びて」いるのではないか。
 塩崎さんの写真展が不思議なのは、そういう戦略的なことなんかカケラもないように、一点一点に写真家個人の想いを載せていて、その想いの元になっている個人的エピソードは鑑賞者は「知らない」が、それでも一枚一枚が愛しいのだろうな、ということが伝わる。そこに「つらなりの意味」なんてことはあまり意識していないように思える(すいません、もしかしたらものすごく意識してある結果、意識していないように見えるのかもしれない・・・禅問答みたいだな)。要するに媚びずに展示している。だけど、なんだ結局そんな「つらなりの意味」って、作家が安心のために落とし前をつけたいがために屁理屈をこねているだけみたいなところが、たぶんあって、鑑賞者に伝わるのはそんな屁理屈なんかじゃなくて、やはり一枚一枚の写真に載っている撮影者の想いかもしれないな。
 いやはや、こんな難しいこと、答えなんかないわけで・・・即ち、こういうことを考えさせられる写真展だったということです。

 大橋さんの写真を見ていると、迫力を感じる。一歩も二歩も被写体に肉薄していると思う。写真家がいま注視しているのはここなのだから、だからほら、ごちゃごちゃ言わずにそこに迫るんだ。そういうもんだろう!といった力強いメッセージを感じる。
 二階の塩崎さんの写真が黒い縁のニールセン額にマットを入れて展示していて、過去の時間をここに再包装してきれいに並べることで、そこに晴れ舞台を演出しているような印象を与えるのに対し、余白なしのマット貼りA2プリントを並べた大橋さんの展示はライブ感が増しているように感じる。
 同じギャラリーの一階と二階を往復することで、展示の仕方によりずいぶんと違う印象になることをあらためて感じた。

 そのあと、東京須田塾第三週組の2月例会に参加。さて、塾の事前に上記の写真展を見てきたことも何か関係していたのかもしれないが、塾生のそれぞれの方の持ってくる写真のなんとそれぞれに違うことか!そして、いまどきのカメラが「そこ」にカメラを向けてシャッターを押せば、まあかなりの確率でちゃんとした写真(ピントあ露出や手ぶれのない写真)が出来上がる。
 すると、そこに残ったのは、写真家がそこを撮ろうと思った意思の記録だけで、言い方を変えるとそれぞれの人の写真はそれぞれの人の意思(意思なんてことばが重過ぎるならば気分とか嗜好)が写っているという「だけ」なのではないか。
 それがよく言う「作画意図」に基づき、どこをどう切り取るかを工夫したりして出来ていても、その一方ではノーファインダーで気になった方向にラフにカメラを向けたものであっても、なんていうか上位のどこかの視点に立てば、結局はぜんぶ同じ、それぞれの人の意思なのだ。
 とすると、誰かの写真を見たときに、それらの写真はその人の意思や気分や嗜好の開陳なのであって、ただそれだけであって、それを「批判する」ということは実は批判すべきでない(というか、批判という行為が当てはまらない)ことを何かワケの判らない既存の基準を誤って持ち出してきて、それにすがることで安心できるがゆえに、それらしく言っている、ってだけなのではないか。あるいは自分の「タイプ」でない「人」との付き合いを避けるようにその写真を自分の嗜好の外に置く時の方便が批判なのではないか。

 もちろんそこに経済的効果を得ようという目的が生ずれば、経済的効果に結び付けられやすい力があるかどうか?という物差しが生じるから、その物差しで写真を「上手い」「下手」で分けて、批判しても一向に構わないのだろうけれど。

 他の人の写真を見て「いい」と思ったり、一方で「わからない」「つまらない」と思うのはどういうことなのか?これって実は極めて「怖い」ことであり、
全ての他人の写真のどこかに何らかの同感を感じられることがその鑑賞者にとっての鑑賞眼の広がりであって、安易に「わからない」「つまらない」と思うのは、跳ね返って写真を見る目のなさをひけらかしているだけではないのか?ここをこう撮った方がいいんじゃない?なんていう「指摘」は暴挙であり、ただそこに出された写真を受け入れて、何を感じられるかと自分を試すことだけが、写真を見るということなのではないのか。
 とかなんとか、ぐちゃぐちゃ考えていました。
 それがどんな写真であっても、自分の嗜好と全く違う写真であっても、それを許容してどこかに少しだけでもわかることが出来るようになれば、それが最高の鑑賞者なのではないか。

 だから私は誰の写真も、尊重して見たい、面白くないわけがないという前提で見たい、と思いました。いや、今日のところはそう思ったというだけです。明日になると言ってることとやっていることが全然違うじゃん!となるかも。