今年も京都国際写真祭(KYOTOGRAPHIE)の開催に合わせて京都へ。金曜の夜に品川から新幹線に乗り、三泊。月曜に帰って来た。ちょうどソメイヨシノより数日遅く満開を迎える種類のしだれ桜が満開のときだった。写真展の各会場は早くても10時オープン。土曜の午前は早く出て、上賀茂神社に行き、しだれ桜を眺めてから鴨川沿いを歩く。京都植物園沿いの桜並木も美しい。
ニセアカシアのK嬢と10時に合流。さらにニセアカシアのH氏と13時に合流。結構精力的に写真展会場をはしごする。
午後5時半、予約しておいた店へ。そこでH氏が「つい先日、ニセアカシアのMさんが参加している何かのワークショップの宿題でボルヘスの「不死の人」に収められている「アステリオーンの家」が課題となったそうで、その小説についてH氏はMさんにどんな小説なのか解説を問われたことがあった」「だけど(H氏は)引っ越したばかりで「不死の人」の本が見つからない」「そこであらためて再読はできなかったが覚えていることは伝えた」と言う話をはじめた。それでとても驚いてしまったわけだが、それと言うのも、この京都旅行に持ってくる本として私はまさにその「不死の人」を選んで持ってきていたからだった。いつもどこかに旅行に行くときは、そのとき読書中の本を中断しても、その旅行に持っていくのにふさわしそうな本を一生懸命選んで行く。その選択の結果が、今回はその本だった。
ボルヘスを読んだことのないK嬢に、H氏がボルヘスのことを話し始める。彼はかの作家に関して大変に詳しい。私はその晩、宿に戻ってからその「アステリオーンの家」を読んだ。直前にH氏に聞いていた解説のおかげもあって、理解が進んだ。
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写真を見ていて、何がどう写っているかや、その写真の撮られた背景やそこに至る物語や、そういう言葉で伝えれれそうなこととは別に、一枚ではなく何枚かの写真をまとめてみたあとに、一枚一枚を思い出すというような行為ではなく、自分の心の置かれているポジションのような場所がどういう方向にそれらの写真によって移動させられたか、それらの写真が見た個である「私」の心にどういうざわめきを起こしたか。その移動させられた方向や、起きたざわめきを漠然と「雰囲気」や「(その作家の)カラー」と言うことにする。すると同じ「雰囲気」や「カラー」をもたらす写真や小説や音楽があって、本当は写真や小説や音楽と言うジャンルで括るだけでなく、この同種の「雰囲気」や「カラー」をもたらす(その表現手段は問わない)作家たちを括るこことが出来るに違いない。その方が「派」や「同時代性」は語りやすい気がするがそもそも「派」や「同時代性」とは後日の文章化のための作業であってどうでもいいことなのか。
小説とはぜんぜん関係ないことなのか、なにかつながりがあるのか、読み終わってからそんなことをちらっと思っていた。
ボルヘスの小説と同じ(上記の括りの)写真や音楽ってどういうのだろう。具体性を持って計画が浮かばないが、そういう写真が撮れるといいだろうな。