城田圭介 写真はもとより @ 茅ヶ崎市美術館

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日曜日。曇天から雨。寒空。午前、平塚市にある実家に行く用事があり、その行き帰りに平塚市美術館または茅ヶ崎市美術館にでも寄ってこようか、と思い立ちそれぞれの今の展示内容を調べてみたら、茅ヶ崎市美術館で開催中の城田圭介~写真はもとより~という展覧会に興味をそそられたので、実家からの帰り道に寄ってみた。撮影自由だった。例えば展示された作品のひとつが上、もっと近づいて「部分」に注目すると下のような作品だった。とても面白くて、このシリーズもほかのシリーズも、このワクワクした感じはトーマス・ルフ展を見たときに感じた気持ちと似ているかもしれないと思った。この作品では、たぶん、想像するに、と言うことだけれど、どこかの観光地に大勢の人が集まっている、その人々が広く散らばった写真をまず撮って、それをベースに、人物のみをキャンパスに模写している。その模写に当たって、どういう手法をとっているのかは判らないです。プリントをベースになにか写し取るのか、例えばプロジェクターを現代のカメラオブスキュラのように使うのか。下の「部分」を見ると、同じカップルが描かれて(写って)いるから元は複数の写真を使っているのだろう。

これらの人々が集まって、彼らが見ている風景や名所の建物やなにやらが消されている。このことはなにを言いたいのかは判らないが、作品を見ながら私自身は、なにかとてもポップな感じを覚えたのです。

この展示のちらしにはこう説明されている「前略~写真に写り込んだ人物だけを抽出し、油彩で描いた新作を発表するなど、多様な展開を示します。作品はいずれも写真をもとに制作されており、特筆すべきは、写真に写された風景や絵の具で描かれている人物が、現実的な関係性から切り離され「何も」そして「誰も」存在していないかのような一貫した静けさをまとっていることです。現在、我々を取り巻く社会において、瞬く間に大量消費される写真。その膨大な情報の波に抗うがごとく、静かに佇み一心に制作する城田の姿勢が特異性をもって浮かび上がります。~後略」

この解説を読んでも知りたいことは書かれてない。作者がこういった手法をとることで何を言いたいのか、言いたいことなんてないがこうしたかったのか、あるいは、私がポップだなと感じたのは制作側の理屈に合っているのか、お門違いなのか・・・

風景や名所を取り払われて、場所の固有性が消えることで観光という行為に赴いている自分も含めた人々の共通の感情の滑稽さや楽しさややるせなさ、あるいは誰か、観光戦略をつかさどっている見えない力にひれ伏しているかもしれないこと、いやいや、そうではなくて、こういう群衆に属していることの安心感・・・そういったいろいろな感情をあぶりだすための装置として機能しているのではないか。

ある休日にあったあなたの観光を思い出して、懐かしむことの普遍性、かもしれないし。

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ガーデンプレイス

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恵比寿のガーデンプレイスにある東京都写真美術館に、中野正貴の「東京」、山沢栄子の「私の現代」、日本の新進作家16「至近距離の宇宙」を観に行く。帰りはすっかり暗くなっていて、いつもよりずっと人が多いなあと思って歩いて行くと、なるほどガーデンプレイスはすっかりクリスマス支度が整っていて、例年通りの大きなツリーが飾られていて、その下で記念写真を撮る人々でごったがえしているのだった。

素直に、きれいだと思いました。

 

山沢栄子、生誕120周年にあたる写真展だそうで、この女流写真家のことはいままで知らなかったが、すごい人がいたんだな。1920年代にアメリカに渡り、写真技法を学び、帰国後ポートレート写真を生業にし、晩年は抽象的な表現を志し「私の現代」シリーズを残した。その抽象的な表現というのは、いろいろな素材、色紙や植物や金属(ワイヤー)や絵の具を使って作った、言い方がこれでいいのか「静物」の配置を作り出して、写真に収めたものなのだが、こういう作品はときとして「わからない」「飽きてしまう」「つまらない」ということに、私の場合は、なりがちなのだけれど、どれもきれいでウィットに富んでいるということがあるのか、飽きない。楽しめる。きっと写真家の楽天性のようなことが関係している・・・のかしら。

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代々木公園 × 古いレンズ

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1957年頃の発売されたスクリューマウントの35mmF2.8レンズをマウントアダプターを介して現代のデジカメに装着し、それを持って、代々木公園に行ってみた。順光で撮っている分にはとてもよく写るのです。オールドレンズを使っている「感じ」に写らない。しかし、絞りを開け気味にして逆光で撮ると、どかんと真ん中にフレアが現れて像がぼんやりとしてくる。写った瞬間にすでに懐かしさというのか思い出が写る、そういう感じがする。最新のレンズは今のそのままを写し取る。オールドレンズは未来に今が過去になったときの思い出のような画像に置き換えて写し取る。そういう感じでしょうか。

12月の晴れた休日。

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忘年会のあとに

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日比谷公園の近くで忘年会があった。終わってからコンデジを首からぶらさげ、東京駅まで歩いてみました。東京駅は戦争前の元の建物に復元されたが、そうなる前のもっとシンプルな斜面の屋根の形を見慣れていたから、かえってこっちが新しくて、華美すぎて、親しめないって感じがしないでもないな・・・

一番イルミがきれいな通りがどこか知らなかったせいで、そこを通らずに、一本手前で曲がってしまいました。もう店は閉まっていても丸の内のオフィス街のビルの一階にはいっているいろいろなショップのショーウインドウのディスプレイを眺めるのは楽しいものですな。

 

12月の好天とは

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フルサイズミラーレスカメラに1960年代の50mmF1.2を装着する。そのカメラを首からぶら下げて、神奈川県中郡大磯町をぶらついてみる。上の写真は島崎藤村が晩年の2年弱(だったかな)を暮らした旧居(公開されている)の廊下の、ガラスが嵌った引き戸。大磯の町を歩いているうちにどこかで真っ赤に紅葉した楓にも出会えるかなと思っていたが、そういう木には出会わなかった。そのかわりに赤い実をつけた高い木や低い木や小さな植木をたくさん見つけた。この藤村の旧居にも庭と玄関の奥に赤い実を付けた木があった。せっかくオールドレンズを付けているので、なるべく開放で撮ってみる。相模湾に面した「湘南」とか「西湘」とか呼ばれる海沿いの市町村の冬は(もちろん冬だから寒いけれど)明るい光に満ちている快晴の日が多い。最近は昔よりも天気が崩れることが多い気もするが。もしかしたら、子供の頃からの冬の思い出が晴れていた日のことばかりだから、そんな風に思っているだけかもしれないな。

島崎藤村は「すずしい風だね」と言ってから亡くなったそうです。

一番下の写真は大磯の漁港の小屋の写真です。このあと、船溜まりの水際で、イソヒヨドリを見つけました。

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学芸大学の居酒屋。写真同人ニセアカシアの忘年会に参加。

件(くだん)と言えば、内田百閒の短編を思い出します。

今年の二月?一月だったかも?西荻のブックショップでニセアカシア8(写真同人ニセアカシアメンバーによる写真集)の発行に合わせて小さな写真展を開催して以来、その後はずっと「ほったらかし」な感じのニセアカシア活動であった。そのあいだに、人には子供が生まれたりしている。そのあいだに、人には旅心が増したりしている。

2020年、9年目のニセアカシア9号できるかな。