土日の雑記


 土曜日。昼に某コンビニで買った春雨スープを食べたら、一時間もしないうちに腹を下す。何か自分に合わないものが成分にあったのだろうか?次回の須田塾のためのネットプリントの注文作業。これが結構時間が掛かるんです。特にデータ容量の多いDSLRで撮ったものは、ネットに上げるのに時間を要する。
 腹の調子(腸がずっと痛かった)を気にしつつ、ネット作業。データを上げている時間には先週ブックオフで買った掘江敏幸著「雪沼とその周辺」を読む。この短編集、単行本が出たときに読んで、堀江作品の中ではあまり良い出来とは思えなかったのだが、なにやら随分と文学の賞を受賞していた。最初の一編、最初に読んだときラストに主人公がこうなると記憶していたところが、そうではなかったのに驚く。なんだかイマイチと思っていた理由がそこの勘違いにあったようなので・・・。それで日曜夜までに四編ほど読み進んだが、いずれもラストがごろりした違和感を持った終わり方。含みを持たせた爽やかな余韻(あるいは爽やかではなくても何か判り易い感覚の余韻)、という終わり方なら典型的で、ある意味嫌らしく、だけど秀逸なら感心する、というようなものだが、この短篇は含みを持たせた余韻というより、風雲急を告げているテレビのニュースが突然停電で途切れるような感じなのだ。それで、読んでいて、先へ先へと読み進みたいという気持ちが出てこない。しかし、そのごつごつごろりを見極めるために、多分、更に読み進むのだろうな。そして読み終わるとそのごつごつごろりが特有のものとして残るのだろう。
 先週、半額だと勘違いしてブックオフで買った本、ほかに例えば村上春樹著「意味がなければスイングはない」。これも半額だと勘違いしなかったらレジに持っていかなかったのだが、読んでみたら面白かった。村上春樹のエッセイってあまり読んでいなかったせいか、この作家が「僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。」なんて書いているのを読むと、なんていうかな、それこそ「血肉ある」村上春樹を知ったって感じがした。村上小説は私小説ではないから小説世界に浸っていても、その小説にこういうことが底流として流れていても、作家自身を「知って」(あるいは「知った気になって」)それにより作家自身に一方向とは言え親しみを感じるというようなことってほとんど起きない。私は。でもエッセイを読むとそういうことが表に見えてくる。

 日曜日。腹の調子はほぼ回復。
 今日は写真展の準備、終日。額装をしたり、会期中に会場に置く手作りの「図録」的なものを作り始めたり。それで今日は好天だったのに、ずっと家に居て、家族のSが出かけてまた帰ってくるときに自家用車で駅前送り迎えしたくらいしか外に出なかった。だから写真を一枚も撮らなかった。

 上の写真は金曜日に撮った多摩川。