辻堂元町 忙しい散歩

 休日の散歩は、のんびりと、気の向くままに、歩きたいものである。今日のように、暖かく好天で、しかも明日の日曜日には天気がくずれると同時に寒気もやって来るというような予報であるのなら、尚のことゆるりとしたいものである。宮沢賢治がマントを羽織って、少しうつむき加減に歩いている白黒写真があるが、ああいう後ろ姿になって、少なくとも仕事や暮らしにおいて抱えている問題点ではなく、愚にもつかないようなことを勝手気ままに考えたい。
 しかし、今日は午後1時から用事(マンションの理事会)があって、それまでに帰宅せねばならず、ならもっと早く出かければよいものを、ぐずぐずとテレビなどを見たりしていて、十時を過ぎてから散歩に出かける。それでも家を出たころには結構な時間があるように思っていたが、辻堂駅に降りたときには十時四十分になっていて、どうやら目的の長久保公園まで歩いて、写真を撮って、また歩いて戻る、というのは無理だと断念せざるを得ず。
 朝のテレビ。世の中、天下った先で仕事をしている方は、これ全て悪人のように言われ、報道され、何の専門知識や判断力を信頼されてその役に選ばれたのかも判らない仕分け人とやらが、これ見よがしに責め立てる。しかし、池波正太郎もそれをテーマにいくつも小説を書いたように、悪人も善を行い、善人にも隠したい過去があるもの。何からなにまで白か黒かしかありえないような、それを短時間で決め付けるためのキーワードを増殖させるような世の中は、幼稚極まりない。
 何年もそこに、人それぞれではあってもそれなりの情熱をかけて社会や人のために仕事をしてきて、そのベテランとなった人の意見や知識は貴重でないはずがない。即ち天下った人にも、本当に「やめてもらうべき」人もいるのだろうが、貴重な助言をしている方もいるはず。給与額等の是正はあってよいのかどうか、良く判らないが、それはよくご存知の方が適正値を示せばよろし。一派一絡げにダメと、悪と、無駄と、決め付ける愚かさ。あるいは仕分けでも、ノーベル賞受賞者の大先生を揃って呆れさせるほどの稚拙さ。まったくもっていつのまに平成の世はこれほど幼稚になったものなのか。
 というようなことをどうしても考えてしまい、散歩もリフレッシュに遠い。おまけに、理事会の時間を気にしつつ、それでも辻堂駅周辺の住宅地をぶらぶらと、適当に路地を曲がりながら歩いて行く。友人のH君は京都に旅行中で、紅葉の状況を伝えるメールがときどき届く。どうもありがとう。携帯メールも、郵便同様、楽しいもの。こちら、京都の名だたる紅葉の名所とは異なるものの、住宅の塀越しに見える庭木も、派手な色ではないものの茶色や黄色や朱色に色づく。Hくんに、「そうですね、いつもいつもこれが最後と思って見ていれば、気がつかなかったことも気がつき、また、愛おしくもなるでしょう」と返信しようと考える(が、結局返信せず、すいません)。
 辻堂駅近くのレストランでポークソテー定食を食べて、茅ヶ崎駅で家のものに頼まれた買い物をして、ぎりぎり0時50分に帰宅。散歩も時間制限がこうも明確にあると、忙しいもので。それでも写真200枚近く撮り、若干のリフレッシュが出来た。

 夜、レンタルビデオで映画「インスタント沼」。最初の方、映画のハイテンションというかギャグめいたところが、受け入れられず、白けた感じ。が、そのうち白けを増加させるのではなく、ちゃんと白けを取り除いてくれて、最後にはすっかり楽しめる。

 上の写真も、下の写真も、そんなわけで辻堂散歩の中からです。
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78 (小学館文庫)

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