忘年会 12月須田塾例会


 19日。品川のホテルの上階で忘年会があったので、夜景を撮っておきました。東京タワー方面。品川には夜遅くに東京から出るサンライズ瀬戸/出雲号電車が車内灯を付けて待機していて、一度乗ってみたいなと思った。

 『いま、ここでこうして話したこととか、話しながら考えたこととか、そういうことが自分にとって一番残しておきたいものかもしれないのに、いつもこぼれ落ちてゆく。人の記憶なんてそんなものだ』といったことが最近読んだ本に書いてあって、記憶からこぼれないようにページの右上を三角形に小さく折りました。

 20日午前は歯医者。やっぱり腫れている歯肉の原因となっている歯根の奥になかな治療の先端が辿り着かないらしい。「次回もう一回トライさせてください」と、先生の弁。治療中に唾液を飲み込みたくなる困った状況にならないように、なんか治療とは関係ないことを熱心に考えよう、と思ったが、熱心に考えることがなかなか思い浮かばない。このまえケーブルテレビで見たスヌーピーとチャーリーブラウンで、チャーリーブラウンが「つかのま僕は天にも昇るような気持ちになった」みたいなことを言う場面で使われた「つかのま」という単語が気になった(要するに気に入った感じ)ので「つかのま」を使う文章を考えようとか思ったりしたが、つかのまたりとも唾液のことを忘れることが出来ない。

 20日昼、渋谷のギャラリーナダール355まで谷川俊太郎写真展を見に行く。谷川さんの詩が持っているポップな感じ、洒落た感じ、が写真にも現れているように感じたが、後になって、それってありきたりの規定路線の感想を引っ張り出して納得しようとしただけで写真だけからの本当の感想ではないのではないか、と思う。それで頭の中でもう一度、見てきた写真を反芻して考えてみたが、ポップとか洒落たというのが合っているのかどうか判らないが、やっぱり詩と写真が寄り添っているようだった。

 20日、午後1時〜4時。須田一政塾。須田先生、「絵葉書のような写真が写真の究極なのかもしれないですねえ、それは絵葉書を見た人それぞれにいろんなことを喚起する力があるから。撮影者の気持ちが入らない(名所旧跡の)絵葉書写真のように淡々と撮ることがいいのかもしれない。そんなことを最近Pさんと話していたんです」とおっしゃる。これは私がこのブログで書いたこともある「お作法にのっとって誰が撮っても同じような写真を量産することに加わって意味があるのか!?の対極にあるようにも感じたが、一方で本当にピュアな「淡々」が現実不可能かもしれず、そう言う意味では量産の先にある最高難度の個性かもしれないですね。見破られない偽札は偽札なのか?みたいな。MKさんに挫折をするような経験を経てそれを写真に反映するようなことが必要な感じを受けます、とも。それで、大学に現役で合格した私が大学二年になる春に、一浪して合格した友人とお茶をしていたときに、(一浪という)苦難を乗り越えた経験がなんらか自分の力になっていて現役合格した人よりある点では勝っている、と宣言されたときに、でもだからって自ら浪人になることは選ばないしなあ・・・と困ったことを思い出す。故意の挫折って出来るのか?

 20日午後4時〜6時。須田塾メンバーで飲み会。何かに惹かれてトランス状態に入るような人とそうでない冷静な人との違いとか、写真を撮っているときに自分と被写界のある領域とのあいだに線を引くか属そうとするか、とか、そんな話が、でもここに書いたものを読むときに感じるような難しいような気分ではなく、ただだらだらとそんな話をしている。

 先日、gapのバーゲンでウールのスラックスを買いました。50%引き。

小さな男 * 静かな声

小さな男 * 静かな声