街撮主義を見てきました ほか


 土曜日は歯医者。9時半、粉雪が舞う中を医院に向かう。十一月下旬より治療している右下の奥から二番目の歯。やっと最終段階に来て、今日は被せ物を作るための型を取ったりした。歯医者も毎週通っていると慣れるもので、治療中に唾が飲みたくなり焦ることもなくなったようだ。医院では患者の精神を落ち着かせるためなんて意図もあるのか、オルゴールによるJPopを「癒し音楽」にしたようなCDが流れている。よく知ったメロディなのに曲名がわからない。家に帰って娘に聞いても、私がメロディを上手く歌えないためか、それとも本当に娘はその曲を知らないのか、判らないと言われる。

 寒い。どこにも出かけないぞ!家にいるんだ!と、帰り道に決心(決心!?)し、以前そんな流行言葉もあった「カウチポテト族」ってどういう語源だったのかな?とか思いながら、TSUTAYAに寄り邦画三本、CD四枚を借りる。

 昨日の金曜日は午前と夕方に都内で私用があったため休暇を取り、私用と私用のあいまに写真展を五つ回った。キヤノンギャラリーSで石川直樹写真展「ARCHPELAGO」、銀座ニコンサロンで須田一政写真展「常景」、ガーディアン・ガーデンで永沼敦子展「目くばせ」、森岡書店で高柳武史+田中文二人写真展「ゆたにたゆたに」、新宿眼科画廊で須田一政塾撮影コース11期修了展「街撮主義-カラスアリ カラサワギ-」。
 街撮主義展、須田塾の私が知っているメンバーとまだ知らないメンバーと、計12名によるグループ展。私もよく撮るが、街中を歩いていてすれ違う人を、あるいは目の前を横切る人を、一瞬に撮ったような写真が複数の方の作品の中に散見される。
 以前テレビ番組で、木村伊兵衛がすれ違う一瞬にライカをふっと目の高さまで上げて、でも次の瞬間には(もう撮影を終えて)カメラは下げられていて、撮られた人はだれも気付かなかった、それは居合い抜きのようだった、と写真家の田沼氏が述懐していた。もちろん、街撮りのときに通行人を撮るというのはストリートスナップの常道で、ときにはローアングルからのノーファインダー撮影となり、それも例えば牛腸茂雄のカラーの写真集(いまタイトルを忘れてしまった)などを挙げるまでもなく既存のクラシカルな手法。勿論、その通行人たちの風貌やら何やら、ときにはそのあたりの光の具合やら背景のビルやら街路樹やら、そんなもので構成されるその光景の一瞬一瞬が動いているなかでの撮影であるから、そこに生れる写真は同じようなクラシカルな手法でも、撮影者の光景の選択につながった厖大な個にいたる背景があるわけで、結果写真は、あるいは作風はどれも同じではない(同じにはならない)、そこが写真の妙なのだ・・・ろうが、でも、この街撮主義の写真展を見ていて、その手の手法による写真が複数のメンバーの中に散見されたとき、その「写真の妙」ではなく、それより「どれもあまり変わりなし」「繰り返し同一イメージが複数の作家のなかに蔓延」といったネガティブな感想を持ってしまった。さらに、その目の前の被写体たる他人たちが、複数人のあいだで、何か、ただ「歩いて行く」ではない「関係性が見える」(誰かと誰かが抱き合っている等)とか「特殊な動作をしている」(何かを避けて飛び上がっている等)と、それは写真的にはより「決定的瞬間軸がプラス」になるだろうから、見ていると判り易く「いい」と感じられるので安心するが、そう感じた後にそれでいいのかな?とも思ったりもした。いつもは須田塾のグループ展を見ると、個々の作家の特徴が際立った、すなわち写真の作風みたいなことをマッピングすると広範囲散らばっていて驚いたものだが、今回の写真展はその範囲が狭まった感じが、その日そのときの私(外は曇天、歩きつかれて疲労気味だった)には否めないというのが感想のだった。
 そんなネガティブな感想を須田塾のグループ展で感じたことがなかったので何度も何度も、行ったり来たりして作品を眺めて、すると、カメラの差もあれば、一枚一枚の仕上がりもそれぞれ特徴が見え、白黒のプリントなんかも相当に完成度が高いものもある・・・ということは判るがやっぱり前述の「蔓延」感が拭えない。
 そんな中で、古田さんの作品が(街撮主義というのとはその作品はちょっと違っていて本当に街撮りだけを並べた人の作品と比べるのはずるい気もしたものの)良い。一枚目の誰かの手が持った花から二枚目の国旗、四枚目の日本髪の女性のアップ、そして五枚目の亞林さんの笑顔、などが入ってくると、そこにはプライベートな古田さんと被写体とのあいだの関係性が入り込んで(見えて)きて、たぶん亞林さんの笑顔の効果もあるのだろう、全体に日々是好日を思わせる。特に真冬のいま見ると、冬になる前の秋に誰にでもあっただろうあの穏やかな休日が、古田さんの個人的事情から発展して、この写真で証明された古田さんの好日そのものに私は属していなくても、もっと抽象的なところで同じような好日を「知っている」と思わせてくれるのだ。それがとても良いのだろうと思った。
 清水さんの写真は新興住宅地と家庭菜園(?)のようなきっちりと撮られた細部を観察したくなるような写真と、一方でピントのぼやけた、空の白に溶けて行きそうな写真などが混在していて、パラレルワールドを見ているような困惑が心地良いのだった。
 他にも賀Qさんの不忍池の写真のローコントラストなまったり感、(私は面識はない方ですが)山内さんのボンネットを開いた車の写真、その写真を含むカラーの下列に対して上に並ぶ白黒写真の「黒」の美しさなど、個々には印象に残っている写真が多かったのは事実。。。

 森岡書店は茅場町の運河沿いにある古いビルに入っている古書店(アート、写真)で、そのビルにそんな店があること自体、通りかかりだと絶対に判らない。書店内にギャラリーが併設されている。数年前、とある写真展を見たくて最初に来たときには迷いに迷ってしまったものだ。今回は写真展というよりまたあの店の中に入ってみたいというような理由で行ってみたが、展示していた写真のうち田中文という方の正方形(6×6?)の写真は雪がまばらに残るような山の写真などで、昔からの決定的に自然の何かを強調した風景写真とかとは正反対の柔らかさ優しさに満ちている。だが、では畠山直哉ホンマタカシとか野口里佳とか、誰やら彼やら、そういう多くの作家を「一括り」するのもそれはそれで乱暴ではあるものの、そういう人達の山の写真を見てきたここ二十年くらいの蓄積からすると、既にこれも「ああ、この手の写真」という括りの内部にあることが否めない。そんな鹿爪らしい批判はさておけば、私的には大変に好きな写真でありました。

 今日(土曜)はずっと家にいることにしたので、自分の撮った写真をPCモニターに写してまたその細部を拡大接写するという数年前にやっていた遊びをしてみた。それが上の写真です。正月に茅ヶ崎海岸で撮った青いダウンジャケットの人の写真を、月面に降り立ったアポロ宇宙船の船員のようにフェイクできないか?とか思ってみたのでした。

 一昨日川上未映子著「ヘヴン」読了。今年は今のところずっと良い読書ができている感じ。

ヘヴン

ヘヴン

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

引き続き読み始めている本です。

 上の方に書いた、歯医者で流れていた曲、小泉今日子の「優しい雨」だということを思い出した。