懐かしくなること

 2月19日、とある式典で慶應大学の小池教授(プラスチック光ファイバーなどの開発における第一人者)の講演を聴く機会に恵まれる。(世界的な発見につながる研究におけるブレイクスルーは、)壁に当ったときに先人が発見した基本原理に遡りそこでヒントを得て、再び壁に挑みそこでまた跳ね返され、それを乗り越えるために、さらにもっと基本原理を遡る、そういう「行ったり来たり」の中でひらめきがやって来てとうとうブレイクスルーできるという感じが実際の感じで、基礎研究から応用研究、製品開発、ときれいに順番を追うようなことではなかった、という話は、臨場感が伝わってくるのだった。
 私が小学生のときに「日本は資源国ではないから輸入した原料を使って技術力で製品にして輸出することが世界の中の立ち位置」と習った。その基本がくずれないようにと、必死に研究をしている方の熱い思いに触れると、またぞろ私はあの「何故1位じゃなくちゃいけないんですか2位じゃだめなんですか」とほざいた仕分け人たちの無能にひどく腹が立つ。オリンピックを見ていたって、1位になりたい人があれだけ必死に練習して運にも左右されながら、競争している。1位を狙って初めて2位や3位や・・・場合によっては10位や11位やになれるのに、1位でなくて2位でいい、というのは、その競争から降りなさいというようなものだと思う。スーパーコンピューターでなくても仮に全ての研究分野に(直近の選挙向けに立てた誰にも理解し易い内向きなマニフェストを達成するために)予算削減を適用したとすると、それは小学生のときに習った立ち位置の保持を放棄していることになり、日本はなだれにまきこまれるように、世界の中にこつこつと先人が築いた位置から、落ちてしまう。というのが目下の心配。

 そんなこともときどき思って、急に不機嫌になったりもするのですが、それはさておき、上と下の二枚の写真は、それぞれ一度撮った写真をモニターに映し出したあとに再度接写しているのですが、こう言う風に解像度も落ちるし色バランスもなんだか青っぽく傾くし、コントラストも黒と白の中のラチチュードがつぶれてしまって極端に圧縮されてしまった、そういう「テレビ画面」のような画質が、なんだかとても懐かしさを誘うのは、私たちがそういう風に劣化した画質の画像を見てきた経験というのが、その多くが過去の「晴れの日」(入学式とか運動会とか遠足とか、それこそ雪の日の遊びとか)に撮られた映像を懐かしく見たときに直結しているからなのか?とすると、こういう画質の写真を見て、それが「懐かしさ」に直結するように感覚が動く人たちというのにも「世代」があって、いかに「晴れの日」に撮られたものを見返すにしてもその画像が既にハイビジョンとしてより臨場感を伝える劣化していない映像になっている若い人たちは、同じこの写真を見ても、もう「懐かしい」とは思わないのかもしれない。どうですか?これを読んでくださっているらしい写団(?)メタセコイヤの面々などはどう感じているのでしょう?
 特に山。ふるさとに山があった人にとって、その山なみの稜線の記憶って、山の持つ崇高さをふるさとを出たあとに、出てから帰ったときに初めて知ることが出来るキーのようなことになっているのではないか、と思うことがあるのです。