春の鎌倉


 亞林さんの親友のMさん、そのMさんのお父様が植物画家で、花や葉よりも枝に惹かれるとおっしゃっているらしい。その枝への惹かれ方がどういうものなのかは存じてないが、植物学的分類を把握しつつ、枝の表面の形状や触感や光沢や、あるいは枝の太さとか、そういうことから嗜好を分析するとなんらかの説明が付くのだろうか。私も、ちょっとした公園とかを歩いているときに、枝の曲がり具合が空間に描いている抽象模様に、ときどき惹かれます。桜も、花の季節にその根本から上を見上げながら、結局はその桜色の中に龍図のようにうねっている黒い枝の作る抽象画を見ているところがある。

 さて、10日の土曜日は晴天。海棠の花を見ることを一応の目的にして、鎌倉右往左往散策。カフェ・ロンディーノでハムトーストセットの朝食を食べて出発、まず海蔵寺へ。庭に咲き誇る海棠や山吹を眺め、裏山の上の方に並んで咲く桜と椿を見上げる。海蔵寺から戻る途中で化粧坂を上がる。鶯の声が間近に聞こえる。他にも姿の見えない鳥がそこここで鳴き交わす。ぬかるんだ化粧坂を慎重に登る。源氏山公園のソメイヨシノの花はほぼ終わりの時期。いっせいに木々が芽吹いている。新緑の中でもとくに生まれたての小さな葉を見上げると逆光の中にキラキラと光る。

 源氏山からは山道を下って寿福寺に降りる。線路を越えたら何か映画に関する新しい博物館みたいなのが、市営のかな?オープンしていてその庭をちらっと眺める。和辻哲郎の旧居が移築されているみたいだった。小町通りを突っ切り、もう桜の花がほぼ終わっている段葛を渡り、パタゴニア鎌倉店と農協直売所を見て回る。何も買わないけど。農協には筍や蕪やトマトが並んでいる。
 そこから妙本寺へ。中原中也が見物に来て、たいしたことないけど美しい、というような感想を書いたらしい海棠はいまある海棠そのものなのかな?海蔵寺のも妙本寺のも、覚えていた印象よりも小さい樹だった。
 写真を撮っている人たち、やってきて、わーきれいだね、と言って、即刻カメラを構えてぱしゃぱしゃと撮って、もう目的終了とばかりに去っていく。撮るのではなくて「見る」ことを楽しめばよいのにとか思うが、意外とじっくりと花を愛でるなどということは難しいもの。自分も結局は同じようにぱしゃぱしゃ撮って、あとはなんとなくうろうろと身体も気持ちも落ち着かず。

 途中いつものペットショップや古本屋、あるいは土屋鞄鎌倉ショールームをのぞき、14時過ぎにラ・ジュルネに入る。スペシャルカレー。美味しいですねえ。3月一杯、店を休んで旅行をしていたジュルネのayaさん、はつらつとしていらっしゃる。こちらがなんだかどんよりと元気がないようなのが際立つ感じで反省。
「今日は海蔵寺と妙本寺で海棠の花を見てきました」「でも、記憶より小さかったな」
と話す。すると、記憶というものは本当から姿を変えているものです、といったようなことをおっしゃった。
「(自分の出た)小学校に行くと、思っていたよりずっと小さいものですよね」
と応えたが、料理の音に私の声は消されて、聞こえなかったようだった。そこで、机の上のチューリップを写真に撮ってみる。ちょっと傾けて撮ってみる。

 更に海棠を見るべく長谷の光則寺へ。ここの老木は、桜の古木にもよく見られるように枝を何本もの柱に支えられた老体。しかし枝を広く広げて花を盛んに付けている。花の前で家族記念写真を撮っている人々。

 そのあと、かうひい屋三番地でかうひい屋ブレンドをで飲む。店にあった三好銀の新しい漫画を読む。海辺の町の小さなエピソードを集めたような話。すごくいいですね。三好銀という人のことは、以前にこのカフェに来たときに本棚から取って来て、読んでみて初めて知った。店で最初の一編か二編だけを読み、ちゃんと読みたくなって、大抵帰宅してからアマゾンの古書検索で捜して買ってしまう。
 小山清の小説みたいです。「日々の麺麭」みたいな。

 17時前に店を出て、由比ガ浜を歩いてから帰る。

海蔵寺の海棠


妙本寺の海棠


ジュルネのテーブルにあったチューリップ一輪


暮れ時の由比ガ浜

優しき玩具~吉松隆ギター作品集

優しき玩具~吉松隆ギター作品集

かうひい屋三番地でかかっていたCD。出かけた先のカフェなどでであった音楽や本って、その場にいたときの「日常ではない」高揚気分のせいもあってとても良いものに思えるものだが・・・それにしてもいい感じでした。