桜並木


 写真は栃木県宇都宮市宇都宮大学工学部前の通りの桜並木です。

 東京駅なかのHINT INDEX BOOK の、いしいしんじ氏の棚から購入した鷲田清一著「京都の平熱」を読了。書かれていることに自分も同様のことを考えたことがあって、するともちろんその部分にはすごく同感を覚える。その同感から始まって、その先の思考を示されると、そこに納得があったり発見があったりする。そういう読書の楽しみだった。添えられている鈴木理策氏の写真、なんてことはない町のスナップで「なんてことはない」の中でも特に更に「なんてことはない」感じ。ところが、それらの写真が、本を読み進みながら見ていくとだんだんとそのなんてことなさの中からこれこそが同時代の京都の、そうですそのとおりの「なんてことのない」風景ですよ、と訴えてきて、それを感知すると感心して、同時に殺風景が好ましい。
 ガイドブックを片手に名所だけを見ていくことに対して、それは「再確認」に過ぎないとおっしゃっている。そういう行動は、『つまりわざわざその場所に足を運んだ意味がない。ほんとうは歩くのがいちばん、そこでばったりなにかに出会うのがいちばんなのだ』(P230)

 街歩きという写真行為は、一見不変でそこにある街を歩いているようではあっても、人の流れや光の具合、そよぐ枝や季節や時間、そういう変化が常にあるから、その瞬間瞬間が全てその瞬間にしかない光景の連続であり、出会いの連続である。全てこれ自分の目の前の光景は二度と現れない決定的瞬間であり、それをいかに受け入れられるか、イコール、どこまでありきたりに思えることを決定的瞬間と意識して撮れるか、ということに行為の意味が立っていると、そういうことを思うときがあったので、こういう記載から写真のことに考えを結びつけると、すごく共感を覚えるのだった。

 とはいえ、そうは言っても、では本当に目の前の光景に無作為にシャッターを切っていけば、それが全て写真鑑賞のときに決定的瞬間と感じ入れるかというと勿論それは難しくて、結局は、決定的と思われる瞬間であるけど、その瞬間がいままでに認識されて安心に寄った定義によらないところを切り開いていて、同時代性の中の先端部分で第三者の誰か一人以上が同様の感じ方(あるいは同様でなくても少なくとも価値を感じる)をすることに「過ぎない」そんな「過小」に過ぎないことなのではないか、それでもそれが重要なのではないか、とかも思ったりする。

 そこでばったり出会ったなにか、に、面白さを見出せるかどうかの感性が重要なのだということなのか・・・なんか、こういうことを考えているときって、結局行きつくところがなんだ当たり前に言われていることじゃん、みたいなことが多くって、自分ってバカじゃないか、と感じる。

 結局は、満開の特別な桜という決定的瞬間を撮りに出かけたりしているのであります。言ってることとやってることが全然違う。でも言ってること(考えていること)通りの撮影なんかしていたら、それは構想どおりに物事が進むつまらない創作にすぎないわけで、撮るときには何も考えないのが得策でしょう。