須田塾6月例会


 昨日19日は東京須田塾(須田一政写真塾)3週組の6月例会だった。

 その土曜日のこと。
 茅ヶ崎駅に着いたら東海道線が、特急踊り子号の遅れのあおりで遅れていて、するとやっぱり、いつもなら空席のある15号車でも座れない。休日に座れないのはちょっと不満である。でもこういうこともあるさ。そこで読書をして行こうと、バッグの中から本を取り出して頁をめくったら、読みかけの「さりながら」を入れてきたつもりが、もう読み終わった「野球部女子マネがドラッカーかぶれだったら」の本だったのですっかりむっとしてしまった。途中駅から座れたので、それではせめてiPODを聞こうとしたら、イヤホンのゴム部分の接着剤が劣化していたらしく剥がれてしまっている。朝のテレビの「占い」コーナーでは私が所属する山羊座は上位につけていたと思うのだが・・・

 神田に着き、ここのところマイ・ブームというか「そうすることにここのところのほんの数ヶ月だけは結果としてそうしているので、あたかも自分としては習慣になっているような気分になっている」行動パターンにのっとり、うな正で840円のうな丼を食べ、二十分ほど神田駅西口商店街をぶらぶらとする。おかひじきの写真を撮ったり(下の写真)。

 歩いていたらTIさんにお会いする。TIさん、少しお疲れの様子。二人で神田珈琲園に向かう。蒸し暑いですねえ、とかなんとかしゃべりながら。

 須田塾。TIさんは白黒のロクロクで、鎌倉あたりのスナップ写真を持ってくる。須田先生のセレクトした写真をテーブルに並べ合評。私は、バケツの穴子、住宅地の松、ぼんやりした晴れた空、海岸を走るレスキュー隊の練習風景、などの写真にただよう、多分コントラストを圧縮したことによるくぐもった感が、時間を経てかすれたような気分を演出し、そしてその「かすれ」が記憶をくすぐり、その先として例えば小津安二郎の「早春」なんて映画にあるその頃の「新しい時代」への懐かしさみたいなことを連想する。

 須田先生のいくつかのコメントをなるべく覚えておこうと思って、聞き耳を立てて聞き取るのだが、しばらくするとだいぶ忘れてしまって、いつも後悔する。速記でもしたいものだ。
 TIさんの写真に対しては、予定調和的な写真を撮るよりももっと自分の内奥が現れるような、例えばTIさんが数ケ月前に撮って来た夜の電柱の写真のような、寂寞とした気持ちが現れているような写真がみたい、というようなことをおっしゃる。(すいません、今日は私の写真に対してのコメントがなかったのでTIさんへのコメントを書かせていただきました)

 その「電柱の写真」を見たときには、確かに「なんじゃこれは!」と思ったものだった。小学高学年のときに平塚市図書館で何気なく手にしたつげ義春の本で「山椒魚」とか「ネジ式」を読んでしまったときの驚愕を今でも覚えているのだが、究極すれば、先生はそういう驚愕をもたらす作品をひたすら期待していると思う。TIさんの電柱写真はそういう驚愕があった。

 人と知り合って、少し深く相手のことを知ってくると、自分の基準からすると「変な癖」とか「変な考え方」とかが見えてきて、それが相手を個別認識して「知る」ということにつながるのだと思う。だから、とあるAさんが、とあるB君のことを語るときに、
「B君って変なのよねだってね・・・なのよ。変でしょ」
とかしゃべり出すと、それは可能性としてAさんはB君が好きになっているかもしれない。そうじゃないことが圧倒的だけどね。

 そう考えると、人はそれぞれ「十人十色」の「色」まで出せれば、即「変」なのであり、誰でも驚愕をもたらせるのではないのか?でも予定調和への安住とか、世間体とか、羞恥心とか、がその現出を阻む。ということは、予定調和や既成の基準が、最大の敵ってことなのだろうか?
 と、ここで「?」と書くところがいつもの私の曖昧さで、だって、そう簡単ではないと思うからね・・・

 上の写真は先週、横浜ベイサイドマリーナにて。