ガラクタ市と陶器祭り


 毎月第一日曜日に開催するという東寺ガラクタ市手作り市、どこかで読んだ本によると知恩寺の手作り市と違ってもっとのんびりとした雰囲気が楽しめるとかなんとか。それで行ってみることにしたのだが、京都駅からの徒歩15分あまりで、すでに猛暑ですっかりカラータイマー点滅状態となってしまう。こんな日に同道していただいたNさん、どうもすいませんでした。
 行ってみたら、99%がガラクタ市(骨董市)なんですね。知恩寺手作り市的な部分も期待していたのでちょっと的外れた感じがしてしまう。それでも一軒一軒見ていくと、興味が惹かれるものが見つかる。古〜いものです。柴崎友香が何かの小説、ええと、この街の今は、だったかな?に書いていたような誰かのアルバムなんかも積んであって、めくると軍服姿の記念写真とかが貼られている。こういうのはどういう経路で骨董やの「手に落ちる」のかな。なんか写っている方がどこか空の方から残念がっているような気がしてなかなか買うまでの気持ちは生じないですね。それでもやはり他人のアルバムはめくっていて面白い。この原因も考えだすと謎にはまるんだけど、とにかく面白い。そこまで古くなくて、たとえば昭和40年代50年代の色あせたカラー写真なんかが写っていたら、また別の感情が現れて欲しくなったりするだろうか?ありきたりだけど、そういう出会いから何かを遡る探索が始まるというのは、ありえそうだ。私自身も、そういえば、まったく記憶にない二歳までの自分が住んでいた舞鶴という町を、古い写真に写っているものを頼りに探索して、ついにほとんど廃墟となっている生家と思われる場所にたどり着いたことがあった。でも、何の記憶もないので、意外と感情は揺すぶられなかった。

 震災後の写真洗浄活動にCTさんが参加していて、一方で若いSくんもそういうボランティア参加をしていらっしゃるそうで、家族アルバムの意義とか意味って、一枚づつ写真をアルバムに「写真ボンド」で貼っていたころも今も、いやむしろ社会の変化や家族の在り方が変化した今の方がもっと重要になっていたのだろうか。

 ところで今日8/7はガラクタ市のあとに二条の雨林舎で昼食をとり、地下鉄と京阪で五条に行って、五条の陶器祭りを歩き、そこから六道珍皇寺の六道参りと、暑い中強行に観光予定を全うした。しかし、途中、五条あたりでふと気づくと帽子がなくなっていた。なんと!昨年とまったくおんなじ。昨年もどこかでエーグルの黒い全周につばがあるたぶんコットンの帽子をなくしてしまい、数年愛用していただけに残念でならなくて、忘れた可能性のある店とかに聞いて回ったのだが見つからなかった。それでそれまで主力として使っていなかったカンゴールブランドの同じような黒い帽子に主力を切り替えて、これも一年のあいだずっと使っていて今はもうすっかり愛用になっていたのだが、またもや同じようなことを繰り返してしまった。私は忘れ物とか落し物とかはほとんどしない方だと思うのだけれど、帽子だけはうまくいかないな。

 陶器祭りで1700円ほど投資して、三つ、ぐい飲み100円、そばチョコくらいの700円、大きめのお椀1000円。陶器祭りは夜の方が雰囲気があるが、物を見定めるにはやはり昼の方がいいですね。ぐい飲みはなんか可愛いらしいの。クリーム色で緑の斑点のある。手にしていたら店の方が、それ売値をつけるようなものではないから、そんなに気に入ったのならタダであげますよ、と。それで申し訳ないので100円を払ったのだが、売値をつけるようなものではないものに惹かれる私ってどういうこと?目利きの正反対ということなのか?