記憶のもたらす距離感


 写真は数年前のものです、あしからず。

 アサヒカメラの9月号は、震災を写真家の方々がどう受け止めてどう行動してどう撮ったか、といった特集ページが組まれていて、興味深く読んだ。結果としていまこれを書きながら振り返ると、彼らの撮った写真を見たというより、そこに書かれていた文章を読んだ、というインパクトの方がずっと強い。
 写真家の畠山直哉氏(以降、敬称略)は自分が育った街をすべて津波にさらわれたそうで、その畠山の書いた「誰かを超えた何者かに、この出来事全体を報告したくて写真を撮っている」という文章にはいろいろと考えさせられた。建物が消えて道筋だけが残った街を歩いていると、この角からこの角はこんなに近かったか?もっと遠かったはずではないか?と思ったということが書いてある。それは「空間が縮小したよう」だった、と。そして畠山は、街に人が暮らし息づいていたということは、すなわちそこに「心理的空間」が作られていたのだ、と言っている。心理的空間は物理的な距離とちがって人の心に根差して見える物理的には測れない空間の「大きさ」があったのだ、ということだろう。『目に映るすべての細部が、記号や意味や記憶の、心理的空間を形作っていたのだということ』(『』引用)という一文には、何かあたりまえすぎて知らなかったことを突き付けられた気がしたし、そういう空間を失ってしまった多くの方のことを思うとあらためて愕然としてしまった。
 畠山以外の写真家のページには、震災後ではなく震災前の写真を載せている方もいて(たとえば尾仲さん)写真は一瞬を撮るけれど、その意味は、静止画ゆえに、そうであるからこそ、時間軸の中に置いたときにその意味や価値が大きく変容するということなのだと、改めて思ったりした。
 目の前の細部のすべてが心理的空間で、それが時間とともに変わっているのであるから、なにも特別な決定的瞬間を撮らなくても、時間を経て変化した心理的空間において、目の前の細部(のありきたりの光景や日常)が写っている過去の写真を見ると、そこには新たな決定的瞬間が醸成されているのだ、というようなことを考える。

 台風接近中。

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