上野


 茨城県某市に出張。帰りにまっしぐらに家に帰らないで、上野駅で改札を出てアメ横を通り、御徒町駅まで歩いてみる。アメ横は平日でもすごく混んでいるのですね。活気があって驚いた。
 小学生のころに、油絵を描くのが好きだった父に連れられて、上野の美術館になにかの展覧会を鑑賞をしに来たことが何度かあった。公園口で降りて、美術館に行き、帰り道は聚楽のレストランで何かを食べた。何を食べたんだろう?一つくらい思い出したいが覚えていないなあ。アメ横の方にはほとんど行かなかったと思う。
 小学六年生のころにクラスの、八百屋のすーちゃんというS藤くんと二人で上野に電車を見に来たことがあった。そのとき撮った都電の写真は横断歩道橋の上から撮った駒が、なんだかうまく撮れた気がして嬉しかった。当時、東北本線の鈍行列車をデッキのあるあずき色塗装のEF57型電気機関車が引っ張っていて、そんなのも撮った。昼食はホームの売店で買ったホットドッグをベンチで食べた。あいだに挟まっていたピクルスを、まずい気もするが旨いかもしれない、といった不思議な気分で食べたような。
 御徒町駅近くでちょっと早い夕食にとんかつを食べようと思ったが目当てのとんかつやが夜の開店をするまであと10分くらいある。それが待てないで、また路地を辿って進んでいく。湯島天神の梅は満開だろうな、行ってみようかな、とふと思ったが、わずか一駅歩いただけなのになんだか疲れてしまって、湯島の梅見物はあきらめて、御徒町駅から電車に乗って、帰った。

 八百屋のすーちゃんはその後、電車趣味から変更して、錦鯉を趣味にしていた。中学に入ったあとだったかもしれないが、八百屋の裏にあった庭に、ずいぶんしっかりとした池を作り、そこで何匹かの鯉を飼っていた。いま思うとあればすーちゃんだけの趣味ではなくて、おやじさんの趣味でもあったのではないか?と思う。中学生にあれだけの池を作ったり鯉を買ったりするのは難しいだろうから。
 鯉を見せてもらったけれど、私は錦鯉には興味を持てなかった。
 趣味というか興味の対象にも流行があった気がする。たとえば切手収集趣味の男の子はあの頃はずいぶん大勢いて、メジャーな趣味だったが、それにも流行の波があったと思う。要するに、外で遊ぶ時間が限られている冬のあいだ、切手が表舞台に現れて、休み時間に誰かの切手帳をみんなで囲んでみたりしていたのだろう。
 外でのボール遊びにも季節性があった。ドッジボールや天下落しと呼んでいたボール遊びは、冬になると流行した。夏の間は草野球だった。

 切手年鑑みたいな小冊子が毎年発行され、それを見ると、いままでに発行された記念切手がいくらくらいの値段が付いて切手愛好家のあいだで取引をされているかが明記されていた。家の近所にあった追分交差点のひとつ南の路地を西に入ったあたりに住んでいたお爺さん(子供の目で見ておじいさんだったが五十代くらいの方だったかもしれない)は、その年鑑に載っている相場価格で切手を売っていた。家の玄関で呼び鈴を押して、がらがらと扉を開け、出てきたお爺さんに欲しい切手を伝えると、たいていの切手は持っていらっしゃったようでそれを売ってくれるのだ。
 いまはもう何の記念の切手だったか忘れてしまったが、同じ柄で色違いの切手があり、片一方(たとえば十円切手)は相場500円で、もう一方(たとえば五十円切手)は相場2,000円のような関係になっていた。あるとき私はその柄が気に入り、相場500円の方の切手を買いに行ったことがあった。ところがお爺さんは間違えて、相場2,000円の切手を持って出てきた。どの段階で私がその間違いに気が付いたか忘れてしまったが、500円で2,000円の切手を手に入れて、一瞬すごく得をした気分になった。
 ところが、そのことは友達にも言えない。さらにはそのお爺さんの家に次に買いに行くこともできない。友達に言ってしまえば誰かに伝わって大人に怒られるかもしれない。お爺さんは自分の間違いに気が付いて、次に私を見つけたら金を返すように主張するかもしれない。そんなふうに「しれない、しれない」と想像するとすっかり怖くなったのだ。
 そんなことがあってからだんだん切手趣味の熱が引いて行った。