写真の行方


 13日で終了したニセアカシア展に展示した14枚の写真の中の一枚。
 この写真展に来てくれた高校時代の写真部仲間のKくんが、
『今回は、写真の、特に画像記録の意味について、一つの考えの提示だったようです。
ある面でコンセプトの強い展示だと思いました。』
という感想を(というか指摘を)くださった。それであらためてそういうことをやっているということが自分で認識できた。コンセプトとかテーマとかそういう創作上の狙いの明確化ということを最初に定めないで、なるべく意識より前の段階で、あるいは何故そこを撮りたいと思うかということは家に帰ってからの宿題ということにして、撮りたいところにカメラを向けて行くという写真行為、その結果の中から、今度は撮っているときとは違う別の(完全には別ではない)自分が選者となって(あるいは誰かに選者をゆだねて)映像的に面白いものを集めて、その果てに、そこから来る印象を後付の言葉でまとめる、あるいは自分自身の不思議を理解しようと浅薄な試みを行うような順序がいままでに写真を展示してきたときの方法として比重が高かったと、あらためてその指摘を聞いて気が付いた。今回の展示は、撮るまえにコンセプトやテーマを決めて撮り始めたということではなくて、そこに父のネガの束という素材があって、そこから写真とは何か?の一面を考え始めて、そのまだ五合目にも到達していないかもしれないけれど、現時点の見解を持って写真を示したことになる訳か、とあらためて思った。その見解をまとめたテキストも添えてみた。しかし、そう明確に気付かされると、こんどはテキストを書かないで写真のみを提示したらどうだったのだろうか?テキストの提示をやめた方が良かったのではないか?と思ったりもするのだ。

 ニセアカシア4号にそのテキストは全文掲載しています。以下は写真展DMにも使った、そのテキストからの一部抜粋です。
『「古い写真」とは「撮られてから時間を経た」ということの別の言い方に過ぎないということだ。写真は誰かに見られているときのみに写真として機能を果たしている。アルバムをパタンと閉じたあとにも、同じ写真がそこにあると安心しているが、次に同じ写真を見るときに、同じ感情が沸いたり、同じ記憶への入り口の働きを果たせたり出来るかは不明だ。すなわちいくらその写真が「古い写真」でかつ「同じ写真」であっても、その写真とその写真を見ている人とのあいだで現在進行している関係こそが「写真」ということだ。写真は「古い写真(=撮られてから時間を経た写真)」であっても、常に新しい。』

 ところで今回展示したのは私が3歳から10歳くらいまでのあいだの時期に父が撮ったネガから選んだのだが、写真展が終わってから思ったこととして、こんどは世代が一つ変わって、私の子供たちが3歳から10歳くらいのあいだに私が撮ったネガというのが当然あるのだが、頭の中でいくつかの写真を思い浮かべると、そのときにはまだ父のネガの詳細なんか知らなかったのにもかかわらず「似ている」写真があるように感じている。まぁ「似ている」なんて単語も、漠然としていて、どう似ているのか?なにが似ているのか?ということを突き詰めようとするとたぶんうまく捕まえられないとは思うのだが。
 それで、上に載せた写真のように、7から8歳くらいの息子がボールを持って、4から5歳くらいの娘が補注網を持って、二人が並んで写っている夏の日の夕暮の写真があったことを思い出し、その写真を探し出そうと思い立ったのだが、いやいやこれが、見つからない見つからない。写真はいろんな箱やら同時プリントのときにもらう簡易アルバムやらに一応は収まりながら、その収まる箱やアルバム自体が複数ありつついろんな場所にしまわれているらしく、さらに後日にそのネガを見たあととかにも同じ場所にきちんと戻さなかったりも重なり、たかだか20年前のものなのに、そしてこの家の中のどこかにはあるものなのに、行方不明で見つからない。
 そんなことをしているうちにきっと違う面白い写真を見つけてしまうかもしれない。

 下の写真は思い描いている「あるはずの」写真の数駒前に撮られたと思われる、こちらはスキャンしてPCの中に保存してあった駒です。