否応なく、の続き


 昨日のブログで、若いころは「否応なく覚えてしまう」ということを書いた。若いころ、新しくある曲を聴くと、メロディも歌詞もすぐに、ときには一回聴いただけで覚えてしまっていたのだろう。自分がそうだったのかははっきり覚えていないが、自分の子供の様子を見ているとそうだから、そうだったのだろうと推定。「今」は流行語なのかもしれない。だけど今ってどこまで本当のこの瞬間、どこまで限定的にΔtを「今」と定義するのかは、そのとき使っている「今」によってまったく異なっている。今は誰でも携帯電話を持つようになって、と言ったときの今が、2013年7月8日のことを含んでいるが、7月7日だって含んでいるし、数年前も「今」だけど、10〜15年前は「今はほとんどの人が携帯電話を持つようになって」であったから「今」には含まれない。こう考えると「今は××であって」とAさんがBさんに語るときに、暗黙了解された「今」もあれば、少なくともΔtが極小の「今」を含むことは確実だとして、その冗長範囲が不明な「今」もある。なんて書き始めると、これは相当に当たり前のことを文章にしているだけのように思う。いや、ここで「当たり前」などと書くと、必ず「当たり前」などとは言えない、という反論があるのだろうが。。。

 音楽というのはΔtを小さくしていくと「今」聞こえているのはその瞬間の周波数や波形を聴覚が受け取った信号であるところの「音の断片」であるから、メロディを含まない。現代音楽の定義とかは知らないが、無知ゆえに怖れずに書いてしまえば、一般的に音楽「たりうる」ためにはメロディはかなり重要な必要条件に違いない。そのメロディは、極小の「今」では認識できずに、極小の(?)「過去からの音の連続性を記憶することによって判別可能になっている。と考えてくると、メロディを覚えるのはいつでも記憶力の問題であるから、若いときに否応なく覚えてしまえるほどの記憶力によって、新しい曲を聴いていたからなんでも覚えてしまっていた。
 それで、そういう風になんでも覚えられなくなると、いかに若いときに「いろんなもの」だったり「より芸術性が高い」だったり(芸術性というのもこれまた意味不明だが)に触れたか、吸収したか、が重要なのである、なんていうよく聴く説教めいたことに行きついてしまう。

 なんていう「説教」に着地するのはとりあえずNG。ただ、同じ曲を聴いていても個によってそれがどう聞かれるかはすべて違っていて、しかもそこには年齢による全体的傾向が存在しているかもしれない。いや、なんてことをずらずら書いてきて、これは世代論みたいなことを言っているだけで、ぐるぐるぐるぐる、猛暑の夜に下らん思考が止まらないってことで。笑止千万なり。

 同じ写真を見ていても個によってそれがどう見られるかはすべて違っていて、その違いの「広がり」をそれでもできるだけ狭くすることを標ぼうするか、それともできるだけ広くすることを標ぼうするか、ということが、なにかの基準になったりするのか。でもそれがまたどんどん変わったりするわけで。

 あれ?読み返してみたら、途中で流れがぶっ飛んでいて、変でした。