米田知子展→代々木公園まで


 東京都写真美術館へ、米田知子展を見に行く。朝から降ったり止んだり。米田知子の写真は、その撮影地で過去起きた歴史的な出来事が「添付」されている。歴史的ななにかが起きた場所へ、撮影に行くという行為の結果の写真である。壁に掛けられた大型プリントには番号が添えられているだけであるから、入口で作品リストをもらわなかったら、その写真の一つ一つに「過去」起きた出来事を知りえない。各部屋(展示は仕切られて作られたいくつかの部屋事にシリーズというのかテーマというのかそういう分け方で展示されている)の入り口というか出口というのか、そこに掲げられた短い文章で大枠が知らされる程度である。作品リストは入口に置かれているが、入口にいる館員は作品リストを持っていくことを特に薦めてはいない。気が付いた客のうち欲しい人だけが持っていく。
 米田知子の写真には、こうして撮影地のテキスト解説が添えられていて、それを知ることで写真の見え方のどんでん返しを食うような気持ちになる。極めて平和そうな光景や、明るい緑や青空が写ったきれいな風景の場所が写真には写っているが、短いテキストに添えられた文章によって、そこが地雷原だったり、収容所跡だったり、過去の国境にあたる道だったりすることが知らされると、否応なく、単純に感じていた「きれい」とか「平和そう」という気持ちがくつがえされる。くつがえされた先は、たいていは重い過去がまとわりつく。
 この手法をどう評価するべきか。テキストにより写真の見え方が変わるということは、いくらあがいても写真の持っている力には限界がある、ということが付きつけられた気がするのだが、あらためて考えると、別段写真ではなくても、どこかそういう場所に行って、そこで起きた出来事を知らないで眺めたときと、なにか知らされて眺めたときとでは見え方ががらっと変わる。観光地や景勝地には解説看板などがあって、それを読むと見え方が変わる。ただ、実際の観光地や景勝地でそういうことに直面することにたぶん、我々は少しは慣れている。写真でやられることに慣れていない。
 そのどんでん返しの仕掛けが米田知子の写真を見るということなのだとすると、米田知子は純粋写真家ではないように思うが、では純粋写真家などいるのか?結局、多かれ少なかれどの写真にも同様のことがあるのではないか、と、ふと気が付くとどんでん返しが鑑賞の理解にも起き始める。
 それにしても作品リストを見ることをそれほど強いていないのはどうしてなのか?米田知子や歴史的背景を知らずに(テキスト情報をインプットせずに)写真を見ることも容認している。具体的な歴史的出来事を知らないことを許可している。
 ところが、これまたどんでん返しのような気分になってくるのは、そういう付与された歴史情報はほんのアシストに過ぎず、結局は我々が普段行動している、どの町のどの場所にも、なんらかの歴史が蓄積されている。東京で撮られたすべての写真に、1945年3月に第二次世界大戦で焼失した、という事実情報を付加できるように、本当はどこもかしこもなんらかの歴史の層があって、それを忘れて普段暮らしているということにあらためて気づかされる。そういうことさえ気が付いてくれれば、それ以上、一枚一枚の写真の場所にまつわる歴史のことを知らなくても本当はいいのかもしれない。ちょっとしたきっかけの付与に過ぎないのかもしれない。米田知子の写真の一枚一枚は、テキストがなくても魅力的な場面がとらえられていることが多い。そのゆるぎない力量があるから、テキストの必然性を破棄しても、写真は重層的になにかを訴えている。
 二重スパイのような、どんでん返しの積み重ねを見せられたような写真展だった。
 途中のスパイゾルゲにまつわる出来事の起きた場所のモノクロシリーズはプリントの小ささと部屋の暗さとで、私の視力が落ちた五十代の眼には何も見えなかった。メガネをはずしてぐぐぐっと写真に近づいてなんとなくしか判らなかった。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1864.html

 そのあと代官山あたりから渋谷に抜けて、さらに代々木公園を通り抜け、代々木八幡駅から小田急で帰る。ときどき雨の落ちてくる曇りの日でした。