キュウリソウ


 なにかに名前を付けると言うことは、何かを限定してしまい、名前を付けられることから漏れてしまった何かを忘れてしまったり、おろそかにしてしまうかもしれない。だから名前を付けることには良いことと悪いことがある。たしか映画になった「GO!」という小説で、小説を読んだけどそういう場面があったかどうか覚えてないのだが、映画ではたしか、名前を付けることに否定をするようなことを主人公だっただろうか、とんがった男の子が言っているような場面があったのを覚えている。
 ええっとブラジルの方には理解できるサウダージという感情はサウダージという名前(単語)があるから、ブラジルの方には当然理解可能な感情だけど、私には正確には判らない。鳥でも花でも木々でも、あるいは感情でも、なにかの見方や視点でも、名前を知ってしまうと、そういう物やもっと抽象的なことが存在していることが判るようになる。というか、見えやすくなる。
 若いときには、野鳥などのことに全く興味がなくて、そのあたりで見かけるのは雀と烏と小鷺と、季節によって、燕。あとはせいぜい鳶。くらいの種類しか見分けがつかず、というより、それ以外の野鳥などは身近にはいないと思っていて、他の鳥には気が付かずにずっといた。が、あるとき、まだ小学生だった娘が野鳥に夢中になった時期があって、それに付き合うようにしていると、暮らしの中に、ムクドリヒヨドリセキレイセグロセキレイなどが普通にいて、さらにちょっとどこかの林に行けば、シジュウカラメジロもいて、さらに少し気を付けながら散歩すれば、カワラヒワやモズやカワセミなんかもいた。これはみんな家の周りせいぜい周囲一キロくらいで、何年かの間に、野鳥を見ようと思ったわけではなくて、ふと気づいたときに見たことのある野鳥だ。

 と、鳥の話をしてしまうところがどうもまどろっこしいのだが、同じように野の花の図鑑をたまたま買ったことが二十年くらいも前にあってから、雑草の花も目に付くようになったのだった。だから、こうして打ち捨てられた植木鉢に残った土に、どこかから飛んできた種から伸びたキュウリソウが花を付けているのに気が付くと、ここにも春を見つけたと思うことが出来るのだった。キュウリソウの花の水色と黄色はかわいらしい。花があまりに小さすぎて、気が付かないことが多いのだ。