somewhere


年に一回程度、ひと月くらいの期間で、映画をたくさん見るという小さなマイブームの波みたいなのがやって来る。何かのきっかでTSUTAYAにDVDを借りに行く。すると、四本で1000円ですよ、なんていう、あちこちに貼られているチラシが目に留まる。そこで、何かのきっかけで観てみるか、と思った映画以外にも3本、借りてしまう。4本を一週間で見るのは、平日はサラリーマンをしている身にとっては結構ハードだ。それでもその4本の中に面白い映画を見つけると、同じ監督の作品を見てみようかなと思ったりするし、宣伝で入っている予告編から、これも見ようかな、と思ったりするから、連鎖が始まる。が、そのうちに週に4本はハードだから、2本にしてみる。3本にしないのは、3本なら4本の方が割安なんじゃないか?何故なら4本1000円を売りにしてるのだから、と思うからだ。実はちゃんと計算したことがないから思い込みかもしれないのだが。そして、あるときその二本ともがつまらない。そのあたりで熱が覚める。つまらないと感じるのも、本当に作品がつまらなかったのか、ぼちぼち映画を観ることに飽きてきた結果が原因なのか、わからないわけだか。
そして、最近はまた、その波が来ている。最近に借りた4本は「家族の鍵」「ミルコの光」「マルタのやさしい刺繍」「somewhere」。
前三本が多分公開時には単館系映画だったと思われるのに対して、ソフィアコッポラ監督のsomewhereはもうちょっと大々的にロードショー公開されたのだろうか?事情に疎いから知らないのだが、有名監督だからそうだったんじゃないかと勝手に思っている。そして、そういう有名監督だから、多分エンタテイメント映画で、すると即ちハリウッドで、すると即ち全編常に音楽が流れて感情操作を強いられたり進化したコンピューターグラフィック技術が度を越しておぞましかったり、いやなに、私のような爺ぃにとってってことですよ、そういう代物じゃないのかな?とステレオタイプ的な認識で半信半疑だった。でも、まぁ勧めてくれる人もいたので借りたのだった。
結果、そういう私の根拠のない思い込みと誤解に反省。音楽は沢山使われているが適材適所な感じでカッコいい。物語は淡々と進み、こけおどしのような展開もない。以下ネタバレ懸念あり注意。
主人公は映画スターでホテル住まいをしつつ、スケジュールに追われ、女性に囲まれた暮らしを、強いられたのか求めたのかもわからないままに、半ば自動的に過ごしている。うーん、過ごしている、と言うより、そういう時間が過ぎていくのに任せているってかんじか。ところが、妻に任せっきりの11歳の設定だったかな、娘がやって来て、しばらく娘との日々を過ごすことになる。その日々を通じて主人公はなにかを取り戻すかのように自分の生活がいつのまにかおかしいってことに覚醒していき、最後はホテルを引き払いどこかに向かって歩いていく。
なんだ、こうして要約して書いてしまうと、なんだかありきたりのつまらない話に思えるな。
さて、ではこの主人公はこのあとどうしたのだろう?それを想像するにあるいは妄想するに、例えば私がいままだ10代20代の青年であったならば、彼は全てを捨てて身をくらまし、新しい自分に生まれ変わるべく旅に出たのだ、とか、確立した地位や名声を捨てて家族のもとへと帰って行くのだ、とか、いずれもヒーローとしての「このあと」を思ったのではないかしら。しかし、いま、五十代後半の私には、そう簡単だとは思えない。彼は全てを捨てたように振る舞うものの、破綻のない、他人におっきな迷惑が掛からない範囲でちょっと突っ張ってみただけではないのか。しかし、ただ突っ張ってみたという一見儚い行為であって、実際には現実に戻ることを最初から予定していたとしても、その気持ちというか気分?いやそういう単語じゃなくて、、、。主義主張って単語でもないようだし、アイデンティティーを司る根っこのところ、そういうところの補修はこれで(全てを捨ててたような振りをしたあとに現実に戻っていくような行為をしたことで)上手く行って、実は表面上はなにも変わらないようでいて、だけども何か重要な変化を遂げることが出来た。そういうことなのではないかなと思った。そう解釈すると、ありきたりではないストーリィではないか。ラストに至るまでの主人公の言動からなのか、具体的にこうだったからという根拠はないけれどそんな風に思え、それであっても、いやむしろそうであるからこそ、私は主人公に拍手を贈りたくなる。