IではなくWe


 昨日、On the Mountain Path - Nao Tsuda | Gallery 916に、夕方の5時ころに行ったら、最終日のクロージングイベントとして写真家ご本人とギャラリーの太田さんという方による作品解説が行われていたのでお二人の話を聞いた。写真展はブータンとスイスとフィリッピンで撮影された各シリーズを、未完の現段階でそれぞれギャラリー内で領域を分けて展示し、作品間の共鳴を呼んだり、写真を読み説く仕掛け・・・というより三つ並べることが道標になっているような感じだろうかそういう工夫がされている。いずれにせよ、広い会場に大型プリントで充実した作品数が並べられ圧巻である。そこへ持ってきて以前もキヤノンギャラリーSで津田直氏の講演を聴いたことがあったのだが、彼はやはり雄弁であり、礼儀正しくもあり、理路整然としていて、話が魅力的なのだった。(太田さんという方の話は、ちょっと先生が生徒に写真の見方を教えている風なところがあって聞いているのがつらくなる部分もあったかもしれない。すいません)まあ、しかし、あれだけ太田さんと言う人が写真と向き合って、そこに没入して写真家の感じたことを全身で感じとるよう真摯に写真を見て欲しい、と言っていたのに、この作品解説が終わったあとの客の写真への集中は、たしかに散漫であるように見えた。どちらかと言えば、津田さんの話を聞きに来たって感じの人もいたのではないかな。こういう解説ツアーなんかがあると、図らずも太田さんの言う「すべて写真に集中して向き合い、写真から読み取るべし」という向き合い方が、作家の解説という言葉の介在があることで、難しくなるのかもしれない。
 自然の力がたまたまにして人間の暮らしを脅かしてしまうとそれは脅威になり、人の暮らしと関係ないところで、すなわち人間にとって安全なところで自然の力が何かを起こすと、脅威ならぬ驚異としてときには観光の対象になったり、あるいは壮大な美として歓迎される。津田直の写真を解説抜きで見たら、いくら写真から読み取れ、と言われてもそこに写ったものが、ピナツボ火山による土石流だとか、仏教の原初的ところに通ずる営みが時間とともに層になって脈々と重ねられてきた場所だとか、そんなことを読み解くほどの「知識」も「見識」も私にはない。するとどうなるかというと、どの写真を見ても壮大な美に思えてしまうのだ。その写真の前に立ったときの最初の印象が。そしてそこがマイナス何十度の空気の薄い世界であったり、紛争地帯でいつ危険な目にあるか判らないような場所だったり、ということを「想像せよ」と言われても、快適な空調の効いた日本のギャラリーにいて、そこから「高見の見物」をしている状態から簡単には脱せない。
 津田直の写真を期待通りに見るためには、知識や見識を磨くか、そうでなければやはり言葉の「アシスト」が必要なのはやむを得ないと思う。そして、その期待に至らないにしても、まずは最初に感じる壮大さや美しさだけで、こちらが魅了されるのは、それがこれらの写真の強さだった。

 津田氏の解説のなかでフィリッピンの写真において、現地の部族との「交渉」に際して、主語をIで話すとダメですべてWeで話すことを求められた、というのが印象に残った。ここで言うWeはどうやら同行のメンバーを代表したWeではなくって、先祖や部族を代表とした(時間を超越した)Weとのことのようだった。