家庭菜園の効果


 写真は11月22日撮影。晩秋に咲くこの花は何でしょう?

14日の金曜。新橋某所にてH田さんの定年慰労会。話題は定年後の過ごし方の計画とか、家庭菜園で採れた茄子や胡瓜のことや、美味しい水のことや、お酒の蘊蓄のようなことや、会社の悪口や、競合他社の噂話、もう一人立ちしたと言ってもよさげな子供たちのことや、若干の隣の国々のことなどで、ここに書いたことって言うのは五十代六十代のおじさんが集まれば、それが共通の趣味の集まりでもない限り、極めて高い確率で発生する話だ。あ、あとは健康とか病気のことですね、両親の状態も絡めて。若い連中との決定的な違いは恋愛模様と異性のことが大幅に欠けていて、あったとしても思い出話程度だ。
私はマンション住まいなので、プランターをベランダに並べれば全くの不可能って訳ではないにせよ、家庭菜園は難しそうだ。H田さんは、今年は、胡瓜や茄子を百本くらいは収穫したそうだ。茄子は、何か珍しい種類の物にしたとか言ってたかな、あるいは極当たり前の種類なのか、そこのところは忘れてしまったが、とにかく何にせよ家庭菜園産は大変に美味しいということなのだ。
今まで誰かに聞いた家庭菜園の話は、必ずと言ってもよいほど家庭菜園産は、買ってきた物とは全く別物でとにかく美味しい、と、こういう話になる。それは自分の子供や孫が可愛い、とか、天才だと感じる勘違いと違って本当のことなのだろう。野菜を作ることに関して言えば、経済的に成り立つ職業農業は個人の家庭菜園の作物、そっちは大量生産ではないからまるで芸術品かのように採算を度外視した手入れもできる、にはなかなか勝てないのかもしれない。
とか書いているが、しかし家庭菜園の楽しみは出来た作物がスーパーマーケットに並ぶ野菜より、見映えは悪くとも美味しいというところに、そこにあるのだろうか?ときに釣果がない釣りでも思索、というか、何も考えなくても、その時間が贅沢であり、だから釣りをすると言う、釣ることが主目的でない、一見意味の無いように思える、すごく意味のあ贅沢な釣りがあるように、家庭菜園も比較的うまく旨い作物が得られたとしても、それは付随的な成果で、実のところ大事なのは一人で野菜をいじりながらも何かを考える、もしくは考えない時間を作るところにもあるのではないか。
そして、前の前のこのブログに書いたような、あえてマニュアル時代のフイルムカメラを、使って心もとないあやふやな写真でもそっちで撮りたくなる気持ちも、そういうことかもしれない。要するに成果物であるいいとされる写真を求める撮影行為ではなく、成果物はたいして求めない、ただ撮る行為をすることに意味がある、といったような。
いずれもサラリーマンが身につけたストレス回避の技(わざ)と言う側面があるのかもしれない。