気分


 五月に読了した本が泉鏡花著「草迷宮」の一冊だけだった。読み終わったのが五月の上旬で、そのあとミシェル・ウェルベック著「ある島の可能性」を読み始めたのだが、面白い本ですねえ、どんどん読む気にならない。かといってつまらないわけでもない。いや、つまらないから途中まで読んで本を閉じてしまう。気になってまた開く。そう言うことなのか。
草迷宮」も読むのに難儀したなあ。古い文体だから自動的にささっと意味が入ってこない。英語の長文読解ってほどではないだろうが、額にしわを寄せて集中して意味を把握しようと言う努力が必要。知らない名詞もたくさんある。この小説が書かれたころの日本人は誰でも知っていた単語。それがいまは使われなくなったり、その意味を知っていることが常識ではなくなってしまった。

 夜、住宅地を何かの都合で歩いているときに、デジタルカメラを持って、撮る気満々になっていて、こんなふうに室内に置かれた怪しげな植物の影なんかを見つけると、早速撮っていた。そんなのが2005年から2010年くらいのころで、その頃にはデジカメのISO感度もいまほど上げられず、シャッター速度がどうしても遅くなるし、手振れ補正機能もなかったので(私の使っていたコンデジは、ですが)、何枚も撮ってみてそれでも全駒、多かれ少なかれぶれていた。
 いまは、ぜんぜん「撮る気満々」にならない。なんだか懐かしい気分で、まあ、あの頃のように撮っておくか、といった気分に過ぎない。そのうえ、ちゃんとぶれずに、ノイズも少なく、きれいに撮れる。

 だけど、写真にそこを撮ろうと思った気分を伝えさせようとすると、案外、ぶれていたあの頃の写真の方が写っているかもしれないぞ。気分は時間とともに刻々と変わっている。その変化がぶれて写ることと相性がいいのかな。