梅雨らしく


 梅雨らしい土曜日。朝にはバナナを食べる。午前、テレビのバラエティ番組を見ながらハハハと笑って過ごす。数週間前に某春樹ファンの女性と話していて、初期の短編集に収録されている、夏の日の芝刈りと失踪した娘の部屋が出てくる「午後の最後の芝生」が好きだったという話をしたら、その方は、中公文庫のフォントが嫌いでそれだけ(短編集「中国行きのスロウ・ボート」)読んでなかったから今度読んでみます、と言った。
 数日前に、その方がアマゾンから1円で買って読んだ。芝刈りは(春樹の他の小説で頻繁に出てくる)雪かきと同じですね、と言った。でも私は雪かきがなにの隠喩というか比喩というのかな、それをそこまでちゃんと把握していないから、この感想に共感するかそれとも同意しかねるのか、そこまでの理由を持ち合わせていない。
「午後の最後の芝生」が好きだった、などと言ったけれど、三十代のころに読んだときにそう思っただけで、その後数年のあいだに何度かは再読したかもしれないが、ここ十年かもしかしたら二十年、読み直しているわけではない。誰かにそんな感想を言ってしまったから、しかも芝刈りや雪かきだという感想まで聞いてしまったので、いちどちゃんと読み直してみようかと思った。そこで本棚をしらみつぶしに探したのだが、見つからない。
 そのうちに午後になった。
 車の助手席に乗っていた。車窓の光景を写真に撮ろうとしているのはいつもと同じだが、撮ろうとする動機が良くないと気が付く。誰も撮らないようなありふれた光景から、誰も撮れなかった写真をすくい上げる、そんなことがいろんな写真論や、あるいは評論家や写真家のコメントとして書いてある。あちこちに。あるいは、いま誰も撮らないそこを撮っておくと、未来にその写真に価値が生まれる。未来に生まれる価値を見越してありふれた目の前を撮れるか?それが問題だ!とか、そういうの。そういうのを読み過ぎているのではないかな、私は。そういう行為にあこがれて、汲々としてしまっている感じがする。もっとフラットな感じで、自然とそういう行為ができれば、一番楽しいのに。なんだかなあ。十年前とは言わず、五年前にはそういうことが出来ていたような気がするな。などと思いながら撮った写真が上と下です。
 知人のブログで紹介してあった、ジャック・ディジェネットやジョン・スコの参加しているグループHUDSONのCDをアマゾンでポチってした。
 たまたま立ち寄った平塚の国道129号沿いのユニクロでキャピトルレコードのUT、その多くが品切れ中だったから、一枚も残っていなかったビーチボーイズのTシャツがどんなものなのか気になった。
 夜遅くに入った吉野家で、バイトの方二人が両方とも新人だったのか、注文ミスだらけで店内がパニックのようにてんやわんやになっていた。
 金沢の方は記録的大雨。北海道で地震

Hudson

Hudson

早く届かないかな・・・・