写真を見るまでの時間


 先月末に長距離散歩をしたときには、ポケットにコンパクトデジカメ、首からはネガカラーフイルムを入れた一眼レフカメラを下げていた。コンパクトデジカメの写真は勿論リアルタイムで撮影結果を液晶画面で見ることが出来るわけだが、撮り終わったフイルムの方は1/5にヨドバシカメラに「フイルム現像とインデックスプリント」と指定して出して、その日に出来ているのを取りに行かず、翌日の1/6に受け取った。1/8の夜にあった職場の新年会で刺身やらエビチリやらステーキやらを食べてから帰宅後、じゃあ、まあちょっと読み込んでみようかなと、フイルムスキャナーを2000dpiにしてスキャンした。自分の写真に自分で満足できるときと、全然気に入った写真がないときが勿論あるけれど、1/8にパソコンの17インチ画面に現れる画像には満足できた。リアルタイムに撮ってはチェックするというときとは違って、ほんの約十日ほど前のことではあっても既に約十日という時間を経過してしまっているから今はもうそこにはない(過去に目の前にあった)光景を私は詳細に覚えていないから、リアルタイムに撮った写真をその場で見るのとは違って、こうして約十日後に見るということで既に驚きが生まれやすいのではないかと思った。
 でも、そういう「既に生じている懐かしさ」という理由ではなくて、本当にデジカメよりもフイルムで撮った方が気に入る写真が多いように思うことがある。そうだと仮定して、ではどうしてフイルムの方が気に入る写真が多く撮れるのか?撮影途中に液晶画面で撮影結果をいちいちチェックするという再生行為と撮影行為が「混在」すると撮影に臨む潔さみたいなことが欠けてきて、所謂「乗り」が悪いことがあるのかもしれないとも思った。
 でもって今の私が、そのネガのなかで特に気に入った写真と言えば、例えばこんなポカーンと広くて、誰もカメラを向けないような「ただのそのあたり」の写真だったりするのだ。
 コンパクトか一眼かに関係なく、撮った写真をその場でいちいち液晶で見るのはやめた方がいいんじゃないか。撮影するときには、撮影のリズムが生まれるように、フットワークを軽くして、どんどん撮るには(再生チェックのために)立ち止まってはいけないんじゃないか。
 私はここでこの遊歩道の写真を撮るときに、目の前のこの光景を「あっ!なんかいいなあ、この広がり方!」と思ってわくわくしたのだったが、でもネガを見ると一枚しか撮っていないのだった。私は大抵、そこで一枚しか撮らない。

 たまたま手にした「キヤノン・フォト・サークル2008年12月号」という本に十文字美信の「熊本・長崎・鎌倉」という作品が掲載されていて、写真に続くインタビュー記事の中で写真家は「写真を撮ろうと思うとき、自然と足が止まります。そして、ここで立ち止まったのはなぜだろうと、撮る前に考え抜きます。〜中略〜立ち止まったからには何かがあるはず」とか「(時間を意識しない人は)どんな風景、どんな写真を見ても、何も感じない」とか「自分が何を感じたのか、それを写真に写し込み、伝えることができたとしたら、写真家としてこれほどうれしいことはありません」とか答えている。
 とても興味深く読みました。

 いや〜、今日は寒かった。氷雨だった。皆さん、風邪にお気をつけて。