3月の須田塾


 2月のひとつきと3月の中ごろまでにコンパクトデジカメで撮った写真のうち自分で厳選してLサイズプリントをした約150枚を持って、3月の須田一政塾第四週組に出席する。その中から須田先生がセレクトした約40枚を並べて、メンバーや先生からコメントをいただく。tsumaさんの感想「(今月の岬の写真は)いつもよりイライラしている」。いつもの月より写真全体の印象の統一感のようなものがないと感じられたらしい。こういう感想は自分ではまるで感じないことなのでハッとする。上の写真はUさんが(私の40枚の中で)いちばん気に入ったとおっしゃった写真。この写真は、2月に三軒茶屋の、河童の絵のある映画館で「同窓会」という映画を見終わったあとに通路で撮った写真。持ち込む150枚の写真をプリントする際に、自分としては何かしらこの写真がいいと思って選んだからプリントしたことになる。そもそも選ばなかった例えば1000枚の写真があって、その1000枚の写真だって、撮ったときには、目の前を通過していった全ての写真を撮らなかった時間にあった光景から写真を撮りたくても撮れなかった光景をのぞいて、それらの中から「撮ることにする」理由があって撮っている。ていうことは全ての私の写真は、全て写真たりうる気持ちの現われである。だからそこから150枚を選ぶときに、そこに既に撮ったときの自分を裏切る判断が加わり、それはどちらかと言えばきっと媚びた選択基準であるようでよろしくないが、1000枚をプリントする時間もないしプリント用紙代金やインク代金もかかるしで、やはり選んでいくしかない。と考えてくると、自分の持ち込んだ写真から1枚も選ばれない(実際にはそんなことはまずありえないのだが、そこは先生のサービス精神で、選抜基準をそのときの作品の全体レベルなりに合わせて上下していただけているから1枚も選ばれないということが起きないのかもしれない)ときを除き、1枚でも選んでいただければ、それはすごく貴重な意見を聞けたことであり、嬉しい限りなのである。しかし、人と言うのは勝手なもので、狭量な自分の選択眼で自分の作品をながめた結果、例えば1000枚の中でほんの数枚の特別のお気に入り写真があって、その数枚って、先生やメンバーに選ばれなくても仕方ないというか、上に書いたような理由で、その数枚が選ばれたか選ばれなかったかを気にすることに意味はない。しかし、須田塾に通い始めたころにはそういう数枚が選ばれないと、せっかく選んでいただいた写真がここにあると言うのに、その数枚が選ばれなかったことの不満が生じていたと思う。Uさんの選んでくれたこの一枚は、だから、そう言われるまでは私の中で150枚中の特別でない1枚に過ぎなかったのだが、Uさんが選んだ瞬間に貴重なものになっている。いやー、また、と言うか、久々に小難しいことをだらだら書いてしまいました。
 写真に写った光景は急激に過去になっていく、というようなことを先生はおっしゃる。急過去。
 最近よく思うのは、シャッターを押した時間から、次の瞬間には写真を液晶で確認できるデジカメと、数分の時間差で写真が浮かび上がるポラロイドと、早くてもDPE屋で待つこと30分はかかるフイルムと、既に数日から何十年も前の光景が採集されている古いアルバムをめくる行為、というそれぞれのこの時間差が写真の見え方を変えているのだということ。同じ写真でも、人が見たから写真であって、レコード(やCD)が音楽を再生していない状態ではその存在理由の多くを失っているように(細かいことを言えばただ持っているということが人に何らかの感情を起させている)、写真だって誰かが見ているときだけが写真たりえている。で、写真が写真たりえているその見るということを実施している人が、自分であったりAさんBさんCさん・・・といろんな人に変化し、その同じ人であっても年齢やその日の気分が異なれば写真から呼び起こされる感情も変わってくる。などと考えると写真というのは物理的にはある程度不変な二次元画像だけれど、実際には見た人の瞬間瞬間で変わっている。そしてその変わるということの作用の中で時間差がもたらす効果って絶大だと思う。
 他人のアルバムの魅力についてもその辺にその理由を解き明かす鍵があるのだろうな。