梅雨らしさ


 梅雨らしい日が続く。ほんの一年前の、二年前の、三年前の、梅雨時がどんな気候だったかすら覚えていないのだが、最近は空梅雨が多く、六月のうちから35℃を越えるような日が続いた年もあったのではなかったか?
 梅雨らしい梅雨に対して誰も正常気象とは言わない。
 異常気象という単語はよく聞くけれど、気象を現す測定項目っていったいいくつあるのか、とか、それぞれの標準偏差はどれくらいなのか、とか、そういうことから考察すれば、実は年にいくつかは百年に一度くらいの”異常”数字を示す測定項目があるのが、「異常ではない」ということにならないのかな?その辺のところを説明してくれないと、一項目が異常値でも全体が異常かどうかはわからないではないか、とか思う。

 ほんの一週間くらいでも雨模様のぐずついた日が続くと、途端に晴れが恋しくなる。例えば一年に二百日は晴れていて、晴れなんか普通のことなのに、ほんの一週間晴れないだけで晴れってどんなだったっけか?と思い出せないような気がする。
 そういうときにこういう晴れた日の木洩れ日が写った写真を見つけると、いまある私とこの写真の関係は、いままでよりも密度が濃い。

 今週は疲れていて、早く寝る日が多かった。すると朝早く目覚める。木曜と金曜は4時台に起きてしまった。寝る前には島尾伸三の「生活」を読み進めている。もう十五年くらいだろうか、ずいぶん前に買って、写真を眺めて、でもエッセイの方は途中までしか読んだことがなかった。数週間前から読み直し始めて、真ん中あたりにきたら、家族や自分の思いのことから、写真のことに主題が変わった。そこには写真に関する悩み・・・というか「思うところ」が書かれていて、その疑問と折り合いをつけようとしてもうまく収まらないような気分が伝わってくる。
 寝る前には「生活」を読み、通勤バスや出張の電車では中平卓馬の「決闘写真論」を読んでいる。文体や態度は違っていても、やはり島尾と同じように写真とは何か?にぶちあたって、中平は吠えている。
 中平の書いていることは、最初に読んだときにはちんぷんかんぶんだったが、今回はすごーくよく判る。しかし、もし中平の言うことに忠実に既存価値基準に準じた写真を蹴散らかし捨て去りしていくと、ではあとに何をどう撮るか?夜の荒野で風に吹かれて行くべき方向もわからず、途方にくれるだろう。それでもどちらかに一歩二歩と進めた、その先がいまの彼なのか。数年前、横浜美術館の大規模展で、会期中に新しいプリントを新たに掲示する中平の作業を遠くから見たことがあった。なんだかすごく幸せそうだったな。「わたくし、いまも、写真家であります」と。
 私が高校のころ、1970年代前半、写真部仲間では、わけもわからず(?)それでも「写真とは何か?」を論じていた。稚拙でも。そうだったからそれから何年たってもずっとその疑問の中で、まあ、ある意味、遊んでいるのかもしれない。

 一昨日、セブンイレブンで買っておいたプリン、一昨日の晩食べ忘れたら、昨日も今日もなんでこんなものを買ったのか?って感じでまるで食べたいと思わない。

生活―照片雑文 (照片雑文 (〔2〕))

生活―照片雑文 (照片雑文 (〔2〕))

決闘写真論 (朝日文庫)

決闘写真論 (朝日文庫)