京都旅行 四日目


 京都国際近代美術館に野島康三の写真展を見に行く。ゼラチンシルバープリント以前の作品はどれも絵画のようで、プリント技法が作品の質をここまで左右するものなのかと思う。写された被写体のレイアウトやポーズも泰西名画のようで、写真が絵画を模倣するような意図が見て取れる。そこから始まって時代とともに写真が変革していくわけだが、そこに写された日本女性の被写体としての美容(メイクか?)のレベル、それとスタイルの価値感の変化、のようなことの方が気になってしまって正当な鑑賞者になれずに早々に退散。写真そのものの力から何かを受けるという以前に、そういう歴史的な視線でものごとを考えてしまったきらいがあり、こういうのは鑑賞の失敗だな。


 京都国立近代美術館周りのお堀に台風のあとの快晴の空が映る。
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 京阪電車と地下鉄を乗り継いで、大阪photo gallery ittoshaに、しえなたばさ展ケ・イ・タ・イに。大阪は曇天。ときに小雨も。携帯電話のカメラを使った写真で、解像度も色再現性もノイズも、もちろん圧倒的にひどい。そういう一般的、常識的尺度からすると技術的には劣悪な品位の写真であっても、それは森山大道が「写真よさようなら」で試みたようなアレブレの写真に比較すると十分に思惑と感傷を持っていた。デジタル表示された赤い数字(時計?)、鯉、水辺の草、等々、被写体が何であるかはかろうじて判るぎりぎりの曖昧さが、謎賭けとなり、写真への視線を絡めとる罠になっているかもしれない。そこから先で何を想起させるのか?何の触媒になるのか?というところで、このシリーズの発展性が問われるかもしれないと思ったりした。

 引き続き、ギャラリーTで島尾伸三の「季節風」を見る。このギャラリーでは林林さんと合流。林林さんは島尾伸三の経歴みたいなことをかなり熟知しており、写真に写された被写体や撮影場所やコメントから、さまざまな写真家への推理を交える。写真は写真だけの力で見る人に訴えるべきという論もあるだろうが、一方でそういう、その写真が撮られた背景を知ることが鑑賞を楽しむ上でとても効果のあることが判る。そういう背景を知った上でぶれた白黒写真などを見ると、白黒であることやぶれていることの効果が、背景とあいまって物語を呼びやすく、ぶれた白黒×写真の撮られた背景(写真家の個の状況)という組み合わせの持つ力は、ある種の写真では力になるのだなあ、と思った。


 林林さんとはギャラリーTで別れ、私は京都に戻る。一緒に食事をする予定のTと合流する前に、強烈な西日が照らす街を散策。一番上の写真とすぐ上の写真がそんな光の街でのスナップから。