ラ・ジュルネを目的に


 久々に鎌倉由比ガ浜のラ・ジュルネへ行ってみようと思う。
 長谷で江ノ電を降り、大仏へ向かうバス通りの一本東側の路地を歩く。途中に右に入る私道があって、この写真のなにやら古そうなアパート三棟に至る。先日の大垣での古いビル同様、息をひそめて写真を撮る。古いありふれた建物を撮ろうとする気持ちはどこから生じてくるのか?
 読んでいる吉田健一の「金沢」に『人が何代か住み着いた家の場合はそれがその家というものであることは門の所から眺めるだけで明らかであって、・・・(略)・・・家はそこに住む人間から生命を得るもので既に生きものであるならば一軒の家にその家が住んでいるとも言える筈である。』とある。保坂和志カンバセイション・ピースも人が住み続けた家は記憶をまとう、といったことが書かれている。もしかしたら、住む人がめまぐるしく変わる賃貸物件はそれだけ早くしかも複雑な記憶を積み重ねて行き、疲弊とともに変幻自在の顔を使い分けるのかもしれない。まるで自然と同じように、人間に対して優しかったり牙をむいたり。
 この左側のブロック塀を挟んだところにもずいぶんと記憶を沈殿させたような古い住宅が並んでいるのだが、そこに行く路地が見付からない。商店街の店の裏にある母屋なのかもしれない。
 新宿のゴールデン街に取り壊しの計画があったり、大阪の法善寺横町が燃えてしまったりで、所謂著名な建築家による学界的価値の高い建物がなんらか保存される可能性が少しはあるのに対して、そういう例えば歓楽街は変化し続けるしかなくだから生きものでもあって写真に残したいという気持ちは家族写真と同じ意味合いがあるかもしれない。歓楽街ですらそうだから、ただのそこらのアパートなんて、そうそうトキワ荘でさえ保存できないのだから残るわけないのだろう。いや、こういうのは公園のSLと同じで、残したらいけないのかもしれず、ただ、こうしてそこを見て、せいぜい何枚か写真を撮って、ふっとプライベートな記憶に結びつけたり、不意に頭に浮かんだ音楽をその浮かんだ理由もわからず頭のなかでたどってみたりするだけでよいのだろう。

 で、由比ガ浜商店街に面した建物なんかも撮りながらラ・ジュルネへ。

 ナムル丼を食べる。写真はピントがぼけていてここに載せませんが、いやはやこれはもう絶品で。。。暑い中、一番面倒なメニューだったかな。おかひじき、っていうのの名前を初めて知る。今日はカウンターに座って、厨房の中でayaさんがてきぱきと指示をしながらすごい勢いで料理を次から次へとこなして行くのに圧倒されてのんびりと話をすべく何かを話しかけるのも躊躇われる。パクチーの入った野菜パウンドも食べる。
 妻もめっちゃ美味しいと言っていました。ありがとうございました。

 それから、ずっと歩いて、途中古本公文堂では下鴨神社古本市でも見つけられなかった大岡信の文学断章シリーズの年魚集を発見し購入。古書店というのは捜している本を見つけるべくいるとなかなか見付からないもので、だからそこで出会った本から選ぶべきところだと思うが、そうは言ってもこうしてほしい本に出会うこともあって実に嬉しい。

 小町通の途中から折れたところにあるビル三階のカフェ・ゴーティにも久々に寄る。珈琲一杯。M本さんと久々にお話できてよかった。