俳句と写真


 朝起きて、まだベッドから出ないままにテレビを付けると、教育チャンネルで俳句の番組をやっている。ゲストの小説家小林恭二氏とレギュラー講師とおぼしき高野ムツオ氏が同じ作品に関して全く違う感想を話しているのを聞いていて、俳句に解釈というか鑑賞というのか、そういうことが作者を離れて自由に広がっていく度量があるのは、やはりそれが短いことに起因しているのかな、とか思っている。音楽とか小説とかは時間軸に沿って、音楽であればちゃんと一小節目から順に演奏された経緯をもって作品が出来上がっているし、小説も一ページ目から読んでいくという時間に沿って情報が入ってくる。でも絵画とか写真は一瞬にしてその平面からの情報が視覚に入ってくるので、あるいは俳句はその短さゆえに一瞬にして書いてある全てが把握できるので、そこに勝手な解釈が入る余地が多いのかな、とか。でもよくよく考えていると音楽から受ける印象は、特にインストゥルメント演奏ではやはり度量が広いだろうからそう簡単な話でもあるまい。ところで度量が広いとそれは霧散する可能性もあるだろうし、広いからいいってことを言っているのではないので誤解しないで欲しい。
 その次に考えたのは、でも写真にも組み写真とか、あるいはギャラリー展示やブックにおいては数十枚の写真を連続して並べて見せるというやり方は、時間軸を利用できて、だから音楽とか小説に近いのかしら、ということで、そう考えると同じ写真でも、一枚写真と数十枚からなる写真作品とは、全然違う表現に違いないのではないか、なんてことでありました。

 昨晩のこと。NHKのBSで私が中学生か高校生だったころのフォークソングを特集したライブ番組をやっていて懐かしいねエ!とか思いながら見ていたのだが、よくよく歌詞を聴いていたら、どれもこれも自分の小宇宙の中の恋愛を中心としてエピソードの連続で(そうでない歌もあったことも知っているけどね)、当時はなんか若者の新しい表現として歌謡曲とは違う新しいものなのだ、とかいうことだったけれど、なんのことはない私小説的な日常を歌っていてしかも随分と乙女チックだったのだな。まあそんなことは皆気付いていて、だから四畳半フォークなんて単語も生れていた訳だろう。
 もう一つ思ったことは、例えば「あの素晴らしい愛をもう一度」なんて曲に出てくる、同じ空を見たとか、赤とんぼの歌を歌った、とかいう恋人の間のエピソードを連ねながら歌われる歌詞を、私は多分中学生のときに初めて聞いて、そういう思春期にこの歌を聞いたときの恋愛への強烈な熱望みたいな気分、瞳がハートになってしまう「恋に恋する」感じをよく覚えている。だから本来この曲の持っていたエネルギーは当時の年齢の杉田二郎だか加藤和彦だかが、当時の若い人に歌うことでものすごい共感を呼んでいた。それがこういう「懐かしのフォーク」とかになって、歌い手ももう「恋に恋する」年齢なんかじゃ全然なくて、会場に詰め掛けている聴衆も同様に中年もしくは老年の方ばかりで、そういうとこの局面でこの歌は「復活運転のSL」みたいなものに過ぎない。
 歌がそのエネルギーを維持したまま歌い継がれるためには、やはりその歌が生れたときの気持ちを受け継げる人に歌われ聞かれるべきであるのだろう。まぁこの曲は中学生や高校生の合唱曲として若い人に歌い継がれているようだから相当に幸せな曲なのだろう、なんてことを思ったわけです。

 写真は今朝、茅ヶ崎市の田畑地帯にて。村上春樹の「納屋を焼く」の納屋ってこういう納屋なのかな?