今週の読書や映画鑑賞


 数日前に、たぶん三十年ぶりくらいにブラッドベリ火星年代記を再読し終えた。話の大筋、ほんの一二行で言い現せるくらいの大筋しか覚えておらず、よくよく考えるとそんな一二行の大筋からだけでも、この小説の底流には科学の進化に寄り添いすぎる現在の人類への警告のようなことが書かれていることは明白なのに、大筋しか覚えていなくても筋とは別に、それを最初に読んだときの印象みたいなことの方が強くて、自分の中ではもっとファンタスティックで美しい小説だと思っていた。しかし、再読して、その印象が新たにもっとその警告を受け入れるような、例えばブルーな印象に塗り換わったかと言えばそうでもないようだ。最初に読んだときが十代後半か二十代前半で、そのときにはそういう警鐘みたいなことより、例えば「緑の朝」のエピソードで想像するだろう、明るくきらめいた新緑の光景の美しさみたいなことの方を覚えていて、だけど今回はそういうことより物語を通じて作家が鳴らした警鐘に心を強く動かされたかと言えば、そんなことではないようで、やはりブラッドベリ独特の、上記の緑の場面のほかにも、火星の船がすべるように進む場面とか、火星人の操る炎の色やら、そういう映像が勝っていて、印象としてはやはり美しい。もしかしたらこういう警鐘は、この小説が書かれてから半世紀を経て、すでに警鐘自体が本当に切羽詰った直面した課題になっていること、それと同時に、既にありふれてしまった感じがあること、などからそこに新規性は感じられないという時代の変化があって、不変であるのは結局は作家の想像力により提示される物語の端々に存在するそういう美しさなのかもしれない。
 レンタルDVDで「ねこのひげ」という映画を見た。この映画は子が二人いるのに離婚した男と、やはり離婚した女の暮らしが描かれる。その離婚の残した傷はいろいろなところ多くの人に及んでいて、まだまだ生傷であって終わっていない。しかし、実際には二人のあいだに始まった新しい幸せそうな暮らしが営まれる時間が圧倒的に多い。しかし二人はその生傷を忘れていないし、そこも直視し、なんとも出来ないにしても目を閉じてはいない。火星年代記の読書と同様、新しい幸せな暮らしの様子の描き方にこの映画の特徴があって、テーマとして底流にありかつ実はありふれている離婚問題や男女問題は本当はどうでもよくて(普通はこっちが大事とされることが多い)という見方を肯定してみたい、というのがいまの私の感じだった。
 読書の方は続いて小池昌代著「タタド」を読んだ。SFから一転して、しっかりとした(特徴のない)文体、それゆえに古さを感じることさえある文体で、男女の微妙な心のひだ、みたいなことが書かれた短篇に移ったので最初は読むのがしんどい感じだった。川端賞受賞作の表題作は、最後のエロティックな場面の具体性なんかには全く興味を覚えず、そこにいたる女性心理みたいなことも興味をかきたてられず。ちょっと読むのがめんどうだった。が、ほかの二編は面白かった。とくに三編目の「45文字」は、これは私の気分と相性のよい設定だったのだろうか、爽やかさも漂い、でもそういう爽やかさも微妙にであって、その加減が良かった。

 それにしても暖かくなったり寒くなったりで、きついですねえ。月曜日に会社の健康診断で試験管(?)3本の血液を採った。水曜日に電話があって、うち一本がどういう理由か知らないが凝集してしまったので再度採血をしたいと言われる。それで金曜日にまた採血をした。

 写真は東北新幹線の窓からちらりと見えた船。3/5の写真。いまは筒井康隆の「旅のラゴス」を読み始めたところ。

旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

 
タタド (新潮文庫)

タタド (新潮文庫)