ただ写真に残っているだけの家


 昨日や一昨日に撮った写真を見直してみても、いい写真が全然見つからない。これはスランプということなのか、それともセレクトするときの「見る目」が不調なのか。何度も、昨日や一昨日の写真を見直して、でも今日のブログに載せようと思える写真が見つけられない。

 澤野工房のジョー・チンダモがポール・サイモンの曲ばかりを集めて演奏したCDをよく聞いている。一曲目「アメリカ」が好きで、でもそれ以外の曲は好きになれずにいたCDだったが、数年振りで聞いてみたら、今度はどれも良い。「さよならフランク・ロイド・ライト」って曲だけオリジナルを知らない(あるいは思い出せない)のだが、これもいい。「旧友」もいい。季節のせいもあるのだろうか?

 いい写真が見つけられないから、一昨日からさらにずっと遡って写真を見て行ったら、この八月が始まったほんの三週間前くらいのことがもう随分と「むかし」に思えるのだった。かといって、時間とともに記憶がすごく薄れたということでもなく、それはやはり三週間前のことで、それなのに「むかし」であって、なんというかもう「戻れない」という当たり前のことが、突きつけられるみたいな感じだ。

 今は過去になっていくけど、自分の記憶の中で、地層のように、時間に正確に、上層が新しく奥に行くほど古いように過去が積み重なっている訳ではない。ビニール袋の中にトランプを入れて、その袋をぐるぐると振り回して、中のトランプをかき混ぜて、それを取り出して積み重ねたように、時間軸とはあまり関係なく過去の出来事が溜まっているのではないか。

 八月の初めに実家にあった古いアルバムをめくっていたら、もうほとんど像が消えかかった「丘の上の家」の写真があった。これは父のアルバムに貼ってあって、その隣には二歳か三歳くらいの父の写真が貼ってあったから、多分1930年頃の写真だろう。もしかしたら石川県に住んでいる叔父さんに聞けば、この家がどこの誰の家か教えてくれるかもしれないけれども、今は少なくとも「ただ写真に残っているだけの家」なのだった。

 今日、電車の中で、何度目かになるボルヘスの「伝奇集」を読んでいたら、それとどういう関係があるかはわからないが、子供のころの「わるだくみ」を不意に思い出した。小学生のころに遊び場だった総合病院の一角にあった樹(青桐かユリか・・・)に彫刻刀で、恐竜を本(せいめいのれきし)で見たブロントザウルスかなにかを彫り付けたことがあった。そのときの自分の心の中では、将来この樹にこの彫り物を見つけた考古学者が、ヒトと恐竜が共存していたという従来の学説ではありえない発見をしたと勘違いをするのではないか、この彫り物によって学説が混乱するのではないか、などと思っていたのだった。樹の寿命のことなど考えてもいないわけなのだが・・・。わるだくみ、というより、わるだくみに相当する心の動きだったのだな。

 相変わらずものすごく暑い。

Joe Chindamo Trio plays the Paul Simon songbook

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せいめいのれきし―地球上にせいめいがうまれたときからいままでのおはなし (大型絵本)

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