126ポラロイド 須田塾例会 川鍋祥子展


 横浜美術館で「126POLAROID-さよならからの出会い」展を開催しているということを土曜の夜に読んだ友人からのメールで知り、今朝、ネットで調べてみて興味を持ったので行ってみる。この写真展の「発起人」は萩原朔美氏だそうで、夏休みに京都の古書祭り萩原朔美著「時間を生け捕る」を買って、まさにいま読んでいるばかりなので、そんなことも後押し。写真展では萩原氏も「定点観測」と題した作品を出展していたが、いかにものタイトルと作品である。
 作品をずっと見て行きつつ感じていたことは、ポラロイドというのは、「採集」と「動画により近い静止画」の表現に向いている、というよりそういう作品を作ることに作家を誘導するような性質があるみたいだな、ということだった。私自身はポラは、数年前に福岡で開催したグループ展のときにワークショップと称して写真家林和美さんに来ていただいて撮り歩きと合評をした、そのときに使ったのが唯一の経験で、要するにポラは使っていないに等しい。誰にもそれなりになっちゃう独特の色や解像感があって、それに頼っているのにあたかも自分が撮る写真が「いい」みたいに惑わされるのが嫌なのだった、というのが公式な使わなかった理由で、実際には天邪鬼なだけだったりしていたのかも。あるいは、フイルムと言う複写のためのデータが残らないということも使わなかった理由であって、まあ、言いようによっては潔くない、とも言える。
 今回の展示は一つの額に、多くの作品では六枚のポラ写真が、横三枚×上下二列にきっちりとシンメトリーで置かれている。そういう展示形態が「採集」したものを標本のように見せるのに向いている面もあるのだろう。
 「採集」と書いたのは、簡易的タイポロジーとでも言おうか、同じ分類の被写体を繰り返し撮っていることで、動画的というのは、時間差の長短こそあれ、ある「定点」で起きたことの記録、例えば川に面した岩の上に人がいて、次の駒でその人が空中に飛んで、次では下の川に波紋だけが残っている、と言う作品が実際にあったかどうかは良く覚えていないが、例えばそんなことである。
 いや、実際には、起承転結を成すストーリィを構成したものや、とある出来事をさまざまな視点で記録するとか、もっと漠然としているけど何かの期間(旅行に出るまえのベースキャンプでの準備期間とか)のその心の動きを投影するような実際にはきわめてクライマックスから外れたそこいらの光景とか、そんな作品も思い返すともちろんたくさんあった。「採集」や「動画的」といった表現も、普通にあるけど、でも茅ヶ崎における圧倒的に多いアブラゼミに対するツクツクボウシくらいな割合で、それがニイニイゼミくらいの割合まで増加していたので目に付いたってことかもしれないな。
 六枚セットの組写真(という単語が適当か?)としていいなあと思うものもあったし、一枚写真として面白いのも多かった。自分でポラを撮りたいとは相変わらず全然思わないのだが、見に行ってよかったなあ。会期中にもう一回、行ってみようかな。。。

 ポラ展のあと、桜木町の古い駅ビル地下にある中華料理屋で昼食。野毛の街を15分かそこら散歩(上の写真)してから、神田珈琲園へ。須田塾例会。

 私は、月曜日にネットで注文しておいた380枚分の日常に(あるいは旅行先での)撮ったスナップ写真のプリントが今朝までに届かず(!)、その前にプリントしておいた海の日の茅ヶ崎浜降祭りの日の写真だけを持って行くことになってしまう。須田塾にある特定のイベントを撮った写真だけを持って行くのは初めてだった。案の定、評判はよくない。写真の記録性を報道的(被写体になったイベントの内容を鑑賞者に伝達する)に使った作品は受けないだろうなあ、と思っていたので予想通りのみなさんの反応。ただ、私としてはこの日の写真は「ピークを外して」「祭りの中心ではなく周辺ののんびりした気分」を伝えたくて、そこからなら報道的なこと(写真は窓)ではなく、鑑賞者独自の気持ちを揺すぶる力(写真は鏡)も出てくるのではないかとも思っていて、微妙なバランスでそれはそれなりにまあ出来ているとは感じているので、なんかみんなの意見を無視している感じで不遜なんだけど、何を言われても全然動じなかった。ハーフミラーみたいな写真ってことで。

 亞林さんの、なんちゅうか・・・夏バテ写真(?)・・・。写真家ってどうして撮ってしまうのか、と思いながらも同じ場所や場面を繰り返し撮ってしまっていて、なんだか同じ線路を何度も繰り返し走っているみたい。それで大したことないのに、その繰り返しが重要だ、とか思ってみたり、(そのあとでは今度は)同じものばかり撮っていてどうしようもないと思ったり、そういう鬱屈したような写真家の日常がそのまま思い出される・・・・と言うようなことを先生がおっしゃった。
 なんか暑いし、外に出る気もしないし、家に寝転がっていてすることもなく、ただカメラのファインダーをのぞいて、ときどき暇つぶしみたいに窓から見える空の雲とか、カーテンとか、干してあるTシャツとか、そんなものを最初からどうせプリントもしないんだよなあ、と思いつつ、惰性で撮る、みたいなことって高校の写真部のころからずっとそうだったよな、と思い出して、先生の話を聞いていて思わずにやりとしてしまった。

 須田塾後の飲み会は欠席して、水道橋のアップフィールドギャラリーへ。亞林さんとTイトウさんもご一緒。川鍋祥子展「針箱」を見に行く。包まれて保護されたもの、くるまれてしまわれたもの、戸棚の向こうにしまわれたもの。そもそも家というのは外界から守られる領域であって。そして、そういうものには使われる目的があって、使われることで、ただの物なのにただの物ではなくなっていて。そういう暮らしの中に在る物への愛しさを、汲み取った優しい写真。パネル貼りの写真や、写真のサイズや並べ方の工夫、など、上手く構成された写真展でした。さっちゃん、個展おめでとうございます。

 さらに、そこから初台に移動して、ベルギー絵画を見たり。最後はオペラシティの地下飲食街のがらがらの韓国料理店で写真談義。
 音楽というのは(歌詞をのぞけば)テキスト(言葉)に縛られにくい表現で、一方、小説や詩はもちろんのこと、写真や絵画はそこにあるものが具象であるとそれが何かという名詞によって把握してしまう、その時点でテキストの呪縛が発生していて、音楽より表現の飛翔の度合に縛りが出てしまう。そこをどう越えるかが重要で・・・。
 云々かんぬん、またぞろ、そんな繰り返し議論が心地良いのだった。


野毛の喫茶店
上の写真も野毛にて、何かの店のガラス窓越しに見えたポスター。